本書は、「週刊文春」2005年5月26日〜2008年5月22日連載、2008年10月文藝春秋刊掲載に、文庫版向けに「あとがき『盗聴』対談」を加えたもの。
「私は子供が嫌いです。」から始まる本書は、宮藤官九郎による彼の娘「かんぱ」の誕生から3歳までの記録、それに3歳5ヶ月と5歳8ヶ月の「あとがき対談」。クドカンの本は「きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)」以来だが、本書も別の意味で面白かった。
仕事の合間や歯医者の待合室で、切れ切れに読んだ。というか、切れ切れにしか読めなかった。各話が3ページなので、それぞれの話が面白くて、それらの余韻を引きずりながら長時間読むには「濃すぎた」のだ。
この本を読み始めてから、このブログの投稿の「文体が軽く」なっているのに気付いた。「あれ、ちょっと軽すぎだな...」と書いてる途中で気付いたこともしばしば。完全に「クドカン文体」に侵されているのです。面白いので、そのまま書き続けたら「ザクザク書ける」。つまり「長く」なるのだ。「軽い文体」を使うと、少しでも関係することを追加しがちになる。まさに、面白い会話をしているときの私の「喋り傾向」だ。色々な意味で反省した。
今後は、「文体」を使い分けます。基本は軽い文体を基本にしている投稿だが、いつもより「軽い」時ときは、概ね長い投稿にだと思ってください(笑)
宮藤 官九郎
文藝春秋 (2011-03-10)
売り上げランキング: 69,990
文藝春秋 (2011-03-10)
売り上げランキング: 69,990
似たような実写ドラマがあっても、これほど面白いとは思わないだろう。良い映画やドラマはあるけど、そもそも子ども頼みのドラマは、好きじゃない。「子どもは天使だ」みたいな描き方には無理があるから。「子どもの無邪気さ」はもちろん大好きだ、時には大人よりも「まともだ」と思うこともある。しかし、基本的には「無謀・残酷」と思える行動をするのが子どもだとも思っている。「社会性」がないからだ。「社会性」がある子どもがいたら不気味だ。
だって、こんな私もガキの頃は「無謀なこと」をしていたと今だから思う。「海に溺れそうになった」なんて数知れずだ。その経験があるからこそ、今分かることがある。例えば「人ってのはナカナカ死ねない」とかね...。「生きたい」と僅かでも思えば、かなりジタバタとモガいて何とかなるものですよ。
Just Like a Kid:子どものように
先日の「バイリンガルニュース」で、「可愛さや美しさをテレビ番組やメディアが強要している」「それを可愛くない、美しくないといえば『空気読めない』となる」「『空気読めない』を避けて社会は息苦しくなってないか?」のような話題。全面的に賛成です。
とはいえ、本書の「かんぱ」を想像すると、子どもは「可愛くない」と自分の意見は主張するだろう。子どもだから「空気読めなくて良い」とはならない。その意見は、その子どもにとっては真実なのだ。
「むやみに場の空気を乱す」のとは違う。そんな社会性のある子どもは知らない。やっぱりそんな子どもは不気味だ。
でもさ、「空気読めない」なんて「ちっぽけな社会性」だと思うけどな。
間違った何かを吸収して育ったり、大切な何かを無くしたりして大人になっているのかもしれない。「ピーターパン症候群」とは違うが、「子どもの視点」は重要だと思う。大抵の子どもは「やりたい」と思うことに躊躇しないが、大人は時として「やれない・やらない理由」を先に「やりたい」ことを放棄 or 考えない傾向がある。
それって「子どもにも劣る」じゃないのか?
子どものことを考えると、書きたいことは満載だがこの辺で止めるが、あと一つだけ言いたいのは、「子どもを子ども扱いしない」こと。私は甥っ子と姪っ子と接する時は、全力で接する。力加減はするが、遊びも勉強も目一杯一緒にやる。体力面ではまだ勝っている私だが、今年のお正月に、姪っ子には暗記力やルービックキューブ全面揃える速さには負けてしまった。悔しかったが、敗北を認めて、暗記の方法やルービックキューブの技を教えて貰った。
子どもにも魅力的な大人であり、子どもにも魅力的な社会にすることが、大人たる役目じゃないのかな?
「俺だって子供だ!」がとても意味深なタイトルに思えてきた。著者の意図は不明だけどね(笑)


0 件のコメント:
コメントを投稿