2010年12月11日土曜日

椿三十郎

1962年日本映画 黒澤明監督
洋題 Sanjuro

用心棒」を観たら是非とも観たくなりました。続編とは謳っていないが実質的には続編です。制作会社からの「用心棒」のヒットを受けての製作となったようです。

三船敏郎演じる三十郎がカッコよくて仕方がない。外国人が「サムライ、サムライ」と騒ぐのが良く分かる。「サムライジャパン」なんて、何となく軽薄に使われている「サムライ」だが、黒澤作品の描くサムライを観ると、そんなに易々とは使いたくない単語に思える。





私が「サムライ」という単語の重さを始めて感じたのは、実のところ黒澤映画ではない。5,6年ほど前に読んだ、三島由紀夫の「葉隠入門」で、その中の有名な一節

武士道という云ふは死ぬ事と見つけたり

である。

三島由紀夫が伝えたかったことと私の理解は異なるかも知れないが、武士道、そしてサムライというものの存在を自分なりに理解した瞬間だった。この言葉は色々な解釈が出来るかもしれないが、「よく生きてよく死ぬこと」というメッセージだと私は理解している。

本作品は続編ということもあってか、「用心棒」よりも作品的にもスケールアップしているし、三十郎のひとなりも深く描かれているように思う。「用心棒」ではほとんど登場しなかった女性の視点や、「(取るに足らない)普通のサムライ」を描くことによって、三十郎の本質がより一層際立っています。それがサムライというものの本質であるのかもしれない。

だれもがサムライであるはずもなく、そうならなければならないとも思わない。そもそも真のサムライなんて、到達できないモノなのかもしれない。なので、やはり「サムライ」なんて表現は軽々しくできないのである。

「サムライ」なんて自分だけが心に秘める、到達すべき精神の一つなのかもしれない。

黒澤映画、次は何を見ようかなぁ ^^;

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