2016年9月25日日曜日

食の未来のためのフィールドノート・下: 「第三の皿」をめざして:海と種子

著者:Dan Barber
原書:The Third Plate: Field Notes on the Future of Food
翻訳:小坂恵理
出版:2015年9月25日初版(原書2014年9月11日)

食の未来のためのフィールドノート・下:「第三の皿」をめざして:海と種子
ダン・バーバー
エヌティティ出版 (2015-09-18)
売り上げランキング: 394,519


上: 『第三の皿』をめざして:土と大地」からの続き。

翻訳版が上下巻に分けれられたおかげで、下巻を読む前に別の本を読んだりして、ようやく読み終えた感じだ。そのためか、かなりジックリ読むことができた。

感銘を受けたことばかりなので、書きたい主題を次の二つ分けて投稿する。

そして今回は「シェフの役割と責任」。

本書は、私が読んだ中、あるいは聞き知ったことも含めて「食に関する話題」の頂点に位置する。それほどまでに感銘を受けたので、多くの引用をしてしまってるが、正直これでも不足する。脅すつもりではないが、料理人やグルメリポーターとか呼ばれている人が、本書を読んでいない場合、その人の「食に関する話」は信用したくない。それほどまでに、本書は強力なメッセージを発している。

私は、「すぐに本書のようなことを実践せよ」と主張してはいない。まずは、本書の内容を意識することから始まる、ことを伝えたいだけだ。「たかが食の話」とあなどっていては、大切なことを見落としてしまう。現代の「マーケット主導」の社会の場合、往々にして見落とされる話題であるのは間違いない。


シェフの責任

「美味い料理を食べながら、その料理の具材の絶滅危惧種のことを心配する」のは

ファストフードを食いながら、美容と健康を語る

並に不自然。しかし、その不自然さは気付きにくい。

次は、本書で紹介されたチャールズ・クローバー著「飽食の海」からの引用。

化学業界の経営者たちは、海洋生物にとって有害な廃水をわずか数グラム垂れ流し、海の環境を汚染した責任をと割れる。一方、シェフは絶滅危惧種の魚の死体を毎晩いくつものテーブルに提供していながら、まったく非難されない。これは一体どういうことだろう。P.27

飽食の海―世界からSUSHIが消える日
チャールズ クローバー
岩波書店
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「天然マグロの解体ショー」は「インドサイの屠殺」と同じ、とはまでは言っていないが、そのくらいの発想の飛躍がなければ、このメッセージは理解されにくいかもしれない。「天然」のインドサイを見ることは可能かもしれないが、天然マグロの実際の泳ぎっぷりは、なかなか目の当たりにはできない。鮮明な録画映像で見るマグロの群れは、「マグロ、いっぱいおるやんか〜」という、誤解 さえ生みそうだ。

1980年代にだってニューヨークのあちこちに寿司屋があったけれど、ブームは起きていなかった。ル・コーズが登場し、「『生魚』をメニューに全面的に取り入れたことがきっかになった。全米中のシェフがいきなり生魚を提供するようになったんだ。(略)そこから始まった進歩の延長線上に寿司の成功があるんだよ」P.77

海外への日本の食文化の影響は言わずもがな。しかし、本当の普及には「現地のシェフの行動」が必要という例。日本人の料理人だけが、海外に「生魚」を広めたわけじゃないのだ。視点を広く世界に向けないと、誤ってしまいがちだ。すぐれた料理文化は、世界中の至る所にある。

でもシェフにも責められる点はある。パラディンやル・コーズは魚の需要を掘り起こし、それが供給網を発展させ、結局は漁業そのものを損なった。(略)(彼らの)推奨した魚の多くは個体数が減ってしまった。P.111

この点で、日本の寿司職人の責任を問うのは辛いが、これが現実なのだ。アジアの少数人だけが寿司や生魚を食していた時代とは今は違う。奇しくも日本が、そんな食文化を世界に広めようと活動しているのだ。

本著者 Dan Barber は一流のシェフで、彼自身が「シェフの責任」を問うているのが本書。「食する側が云々」の前にあるのが「シェフの責任」ということだ。そんな著者だからこそ、ここまでの内容を書けたのだろう。

持続可能性を重視した、そして「美味さを兼ね備えた」料理を創意工夫するのは「シェフの責任」ということだ。

キズモノのアジを押しつぶして巻き寿司のように仕上げれば、本来は捨てられてしまう食材を上手に活用することができる。漁師にとって無駄に思えるものの市場を創造したいと、アンヘルは並々ならぬ意欲を語った。P.36 
「魚の食べ方がこれまでの習慣と矛盾するんだ。みんなが食べたがるのは魅力的で、きちんと名前も付けられた魚さ」とアンヘルは続けた。「(略)海は地球の表面の 70% を占めている。ところがおれたちは、まるでこの世に 20 種類程度の魚しか存在していないような食べ方をするだろう。それを変えていきたいのさ」P.39

先日、都会在住のある女性とのメールで

 りんだ:今日は実家に帰って美味い魚食った。マグロより超美味い!!
 女 性:え!? マグロより美味しい魚があるの?

「マグロより超美味い」は、美味さを強調するために、あえて使ったのだが、彼女のあんなわかり易い反応までは想定できなかった。とはいえ「マグロより超美味い」のは事実です、少なくとも私にとってね。

そもそも私がマグロを初めて食ったのは、実家の長崎から遠く離れた東京の居酒屋か何処かだった。「消しゴム」みたいな色したその物体は、妙な脂の味しかせず、「なんじゃこれ?」と思った。他の刺身も、物心ついた頃から田舎で食べ続けてた刺身とは程遠いものだった。「こんな不味い刺身もあるんだ...」という感じ。

とはいえ今になって、新鮮と言われるマグロを食っても、大して美味いとは思わない。「脂が重い」という印象しかない、魚というより肉だな。「噛まないで良くて、味が濃い」点で、高級和牛に似ている。

好きなときに好きな部位を食べられるというのは、実は誤解だ。税金によって補助金が提供されると産業の効率が高まり、アメリカでは、肉は無尽蔵に提供できるものとうい幻想が生まれ、その結果、人気のない部位は簡単に捨てられるようになった(あるいはチキンフィンガーやドッグフードに加工される)。それと同じで、僕たちがシーフードをぜいたくに食べるのは、無尽蔵に提供されるものだと勘違いしているからだ。そしてもうひとつ、ほかのたんぱく源のようにいまでは養殖されているからだ。P.48

本書を読んで、私は「日本」の養殖の方法に疑問を抱くようになった。問題のポイントは「持続可能性」にある。餌のコストと生成までのエネルギー消費、養殖による環境破壊、そして美味しさの放棄、など不自然な点は多い。養殖誕生の背景自体が、マーケット主導の「産業」なので、自然なはずはない。

養殖されない魚は、ますます市場に出回らないし、「雑魚」のレッテルすら貼られて、調理方法すら紹介されることはない。ガキの頃、親父が釣ってきた「雑魚」を日々食してきた私には、「雑魚」=「食べられない魚」には到底ならない。調理方法を知らないだけの、誤解にしか過ぎない。

「実を言うと、もうスズキを使うのはやめんたんだ。比較にならないのさ。ボラは魚の歴史のなかで最も誤解されているんだ」P.148

ボラの刺身、ボラの吸い物。ガキの頃に頻繁に食ってた。今でも味を思い出すことができる。「鮮度が落ちやすい」と理由だと思うが、今では実家のスーパーで売ってない。もしかして「見た目も美味そうじゃない」という、私には辛い意見もあるかもしれない。バカバカしい意見なのだが...。

「美味しい料理」を食べるのではなく
料理を美味しく食べる

去年、とある Podcast で聞いた言葉。表面的な意味以上に深い言葉だ。この言葉だけからも「シェフの責任」は導ける。

ここまで読んでくださった方で、身近な家庭料理について考えなかった人はいないと信じてます。そうです、本書を読んでの最大の収穫は、日々の食生活への見方が変わることにあります。「シェフの責任」でありながら、我々のような「食べる側」の意識の変化も必要なのは言うまでもありません。


脇役が主役へ:持続可能性重視の『第三の皿』」に続く。

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