2021年8月31日火曜日

『希望の国のエクソダス』取材ノート

『希望の国のエクソダス』取材ノート

著者:村上龍
発行:2000年9月25日第2刷(2000年9月10日初版)
三度目の「希望の国のエクソダス」を読み終えて、初めてこの「取材ノート」を読んで、小説が「当時の出来事に基づいた近未来小説」であることに改めて気付かされる。小説が浮き彫りにした日本の諸問題が、果たしてどれほど現在解決したのか、非常に心許ない。


グローバル・スタンダードで良かったのか?

グローバリズムの流れは止められないが、「グローバル・スタンダードに従う必要はあったのか?」は確かに疑問だ。

村上 そういえば、ついこの前まで、日本人の集団とか共同体の力とか、親密性とか均一性といったものは日本型システムとしてもてはやされていたんですよね。ところがいまやそれはグローバル・スタンダードじゃないからダメ、ということになっちゃった。
 僕なんか、だからこそ日本はこれまで、オートメーションでつくっても故障が少ないとか思うときがあるんですけど、そういうのどうですか。
林 そうだと思います。グローバル・スタンダードでなかったからこそ日本は繁栄できてたわけですよね。ほんとはグローバル・スタンダードなど選ぶべきじゃなかったかもしれない。もっと閉鎖して、外国なんか来るな、とやる手はあったと思いますよ。
 だけどそれを選んだのは、時流でもあるけれど、われわれ自身でもあるんですよね。日本人がそっちのほうがいいと思って選んだわけだから…。P.28 


鎖国時代に、今でも残る豊かな日本文化が育まれたのは否定できない。何でもかんでも「世界標準」ってのも面白くない。「違う(ビジネス)ゲーム」や「異なる価値観」が育ちにくくなる可能性も否定できない。


村上 ただ正直言うと今、少し混乱しているんです。つまりかつて僕はグローバリズムに対して、ある種の期待感を持っていました。旧来の日本のシステムの嫌な部分、村八分とか相互扶助とかいって、集団が個人を圧殺する構図が崩れるんじゃないかという期待です。
 ところが調べてみるとそう単純なことじゃない。グローバリズム、あるいは市場原理主義がいかに恐ろしいか、ということがだんだんわかってくるわけです。
 (略)
 村八分はあるし、差別はあるしで、僕は日本の村落的共同体って好きじゃなかったんだけど、そういうものが日本を支えてきたことは認めざるをえない。そういう混乱です(笑)P.145

「市場原理主義」とは「市場の自由に任せれば、結果として多くの人が幸福」と理解してるが、そう単純ではないだろう。ある面では機能するが、ある面では機能不全を起こす。完璧なシステムや仕組み、そんなものは存在しないのだ。


老人問題

「高齢者問題」ではなくて、「老人問題」としたのには理由がある。

村山 今の医療保険制度は、基本的に医師に対する性善説に立っているから、医療行為に対して歯止めがきかないんですね。さまざまなチェックはありますが、薬や機材を使えば使っただけ、報酬が支払われる。なおかつ、みんな喜ぶわけですよ。患者も喜ぶ、家族も喜ぶ、どんどん濃厚な医療をかけていくと、自分も儲かる。とりあえず関係者はみんな喜んでいるんだけど、そうなったら健保財政が破綻する。
村上 そういった構造は、明らかに不自然で不健康ですよね。たとえばこの小説のように、若い人たちの中から「ウバステ」みたいに、「もう、ぼくらは関係ないよ。老人は切り捨てればいい」と攻撃的になる人たちが出てくるかもしれない。それに対して僕らがどんな理論を持っているかというと、あまり、持っていないような気がするんですよね。
 この小説の中で僕は、中学生たちが高齢者に対して敵対することによって、日本が今抱えている本質的な問題を撃つというふうにしたいんですよ。P.191

日本の「老人問題」へ私の見解は、本編小説で中学生グループ「UBASUTE」と同じだ。詳細は割愛するが、端的に言えば、私が考える「老人」とは「社会的に生きていない」人を指す。つまり「社会的な役割を担っていない」人のこと。

「高齢者」が多いことが問題ではなく、「老人」が多いことが問題。


「自分の言葉で喋る」中学生へ

以下は、文部省政策課長の寺脇研(てらわきけん)氏が、不登校の子供たちとの会話で気づいたこと:
寺脇 (略)
 彼らと話していて気づくのは、ボキャブラリーが非常に豊富で、しかも実に誠実にかつ慎重に話すということです。彼らは不登校という立場を選択した段階で、なぜ自分が学校に行かないか、からはじまって自分のことを自分の言葉で親や先生、そしておそらく自分自身に対しても説明する必要があったんでしょう。普通に学校に行っている子供たちは、自分のことを語る言葉を持たなくても、仲間うちの言葉をしゃべっていれば、それで用が足りてしまうから、ボキャブラリーを広げる必要もない。P.121

「自分のことを自分の言葉」で喋ることがきるのは、大人でさえ多くないと思う。次は、「おとなの小論文教室。 」から;
いま、多くの人が、受験を克服し、大学まで行って、高い授業料を払い、コツコツ真面目に4年間勉強して大学を出ても、自分の想いを日本語でじゃべれるようにならない。
「仲間うちで通じる言葉だけでしゃべる」のは楽、というか「頭を使わない」「考えなくなる」。「自分の言葉で喋る」ことをさせない方が、小学校、中学校の授業では先生が楽なのは明らかだ。それなのに、社会に出てからは「自己責任」「個性的あれ」などと言われる始末。

次は、都内私立男子中学三年生への取材から:
村上 ほんとに堅い親で「こうしなさい、ああしなさい」って、融通がきかなくてユーモアもないっていう親はしんどいよ。そういう環境で育った子どもは、反抗とか自己主張という概念すらないと思うんだね。
 だから「あんないい子が……」って事件のあとに近所の人が言うでしょ。「信じられません」と。そんなのおかしいんだ。ほんとに「いい子」というのは、親の言うことや先生が「こうしなさい」と言うことを、「はい、はい」って言うとおりにやる子じゃないから。
 ナカウチ そういう子を「いい子」にしちゃってる。真面目な子とかね。
ノダ 大人の基準に合わせられてる。 P207

「自分の言葉で喋る」ことができる私だからこそ、中学生に「自分の言葉で喋る」ことを望む。「自分の言葉で喋らない大人」は、中学生にそんな期待はしないだろう。期待するのは「いい子」という意味不明のもの。

私は、私より下の世代への「ロールモデル」になんかなりたくはない。その世代の連中が、個々人で考えて欲しいからだ。彼らの未来なんて、私には想像できないから。それに、私自身が目指すもので精一杯...(笑)

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