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希望の国のエクソダス 著者:村上龍 発行:2008年7月25日文庫版第10刷(2002年5月10日文庫初版) 2000年7月単行本 |
前回読んだのが2008年11月、これが三度目。きっかけは、これも三度目を読んだ「愛と幻想のファシズム」。二度目に読んだ本作の記憶は、「面白かった、もっと勉強しなきゃ、と思った」ぐらい。
実際、三度目を読み終えて、当時書いたブログ投稿を読み返すと、根本的には同じような感想なのだが、異なる点もある。その理由は、2000年に単行本化された本書が、2001年6月から2008年9月までの「近未来小説」であり、そんな「未来」から10年以上を経た現在を読み返すと、かなり冷静に本書の出来事を捉えられたからだろう。
現実の2001年9月11日には「アメリカ同時多発テロ事件」( "September 11 Attacks")。
また、現実の2008年はといえば、2007年9月頃から顕在化したサブプライム住宅ローン危機、その後のリーマンブラザーズの倒産(2008年9月15日)などの連鎖による「国際的な金融危機」。Michael Lewis 著「世紀の空売り(The Big Short)」の投稿でも書いてるように
市場関係者の強欲と、一般市民の欲望の果ての結果
これを今でも確信しているのは、「判断を誤る(リスク管理しない・できない)」のが「人の性」(参照:Daniel Kahneman の「ファスト&スロー」)だから。
現実には、本書のような日本経済の事態は(「幸運にも」と言った方が良いだろうか...)発生しなかった。とはいえ「日本経済はゆっくりと死んでいる」のかもしれない、「茹でガエル」状態なのかもしれない...。つまり、今のところ「日本が経済・社会の両面で良くなっている」という実感は私にはない。
ところで、本書冒頭で「あぁ...」となった。それは、登場人物の関口「テツ」と「中村」君の名前は、アフガニスタンやパキスタンで医療従事していた「中村哲」医師からのもの、との気づき。実際そうなのかは知らないが、私の中では「そう確信」。中村医師のことは、10年以上前に村上龍のJMMメールマガジンで知ったと思う。日本の報道番組でインタビューに応える氏の姿も記憶に残っている。そんな中村医師が、2019年にアフガニスタンで武装勢力に殺害されたニュース速報に、私は文字通り「絶句」して泣きそうになった...
冷静から「希望」へ
こんな感じで、本書が描いた「近未来」から10年以上を経ると、色々な気付きがあった。背景にある「経済・金融」(内容的には勉強にはなるが...)は興奮することもなく淡々と読んだ。あの頃より経済を勉強したのもあるが、経済・金融への興味が以前より薄れたからかもしれない(先に述べたように、経済・金融を「市場の強欲、一般市民の欲望」と達観してるのもある)。
さらに「冷めて」読んでしまったのが「中学生」の行動。やはり「現実的に無理がある」という思いが払拭できなかった。そのような中学生が実在する可能性は否定しないが、ここまで上手くやり遂げられるとは思えない。
そんな感じで中盤まで読んだ、具体的には「愛と幻想のファシズム」の方がオモロいかなぁ...、という感じで。
そんな気分が一変したのは「ポンちゃんの国会演説」:
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが。希望だけがない。」(略)「でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。90年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もがだれもが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、、ぼくらはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います。
愛情とか欲望とか宗教とか、あるいは食糧や水や医薬品や車や飛行機や電気製品、また道路や橋や空港や港湾施設や上下水道施設など、生きていくために必要なものがものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカでない限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと思います。(略)」P.314
発言者が中学生かは問題ではなく、ポンちゃんが発したようなメッセージを、この国で未だに聞いたことも読んだこともないのが残念。例えば、学校システムを訴えた(PRINCE EA: THE PEOPLE VS THE SCHOOL SYSTEM)のような動きは、この国ではないのだろうか?
ちなみに、私より若い世代が「楽しんでほしい」とは願っても、彼らが「変化を起こすことを期待」してはいない。私自身が「起こしたい」と思っているし、「楽しむ」ためには「変化すべき」、と思っている人は世代に関係なく「起こす」ものだから。
「サバイバル」とは「どう生きるか」
危機感だけがものごとを考える力を生む、とその老スーパーテクノクラートは由美子に言ったそうだ。手ひどい失敗をしたあとは、痛みを伴うプラグマティックな分析をしなければならい。もちろん日本はそれができていない。国際流動資金と投機家は常に次の獲物を狙っている。大きな獲物がないと彼らにしてもサバイバルできないからだ。もっとも大きな獲物は各国の中央銀行で、なぜならば彼らは紙幣を印刷することができるから金庫が空になることがない。P.235
ここでは、サバイバルするのが日本の政治や経済ではなく、「自分が属する会社」や「自分自身」だとすると、分かやすい。自分の会社、もしくは自分自身に対して、「痛みを伴うプラグマティック "pragmatic"(実践的)な分析」をやったことがあるだろうか?
"サバイバル" "survival”「生き残る」ことは「どう生きるか」と同じ、と私は思う。
この引用直前の節が、「由美子によると台湾は常に緊迫しているのだそうだ。」で始まる「台湾の例」。それを読んで、台湾の現在までの歴史をざっと調べた。以下その一部:
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Wikipedia |
本書を通じて、改めて台湾の発展の具合を知ることになった。
「時代は変わる」「世界は変わる」のは否定できない、考えるべきは「サバイバル」であり「どう生きるか」。
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