文壇アイドル論 著者:斎藤美奈子 発行:2002年6月26日初版 |
本書が取り上げる作家
村上春樹、俵万智、吉本ばなな
林真理子、上野千鶴子
立花隆、村上龍、田中康夫
上の区切りで3章からなる。
この他の作家に、興味を持ったことは一度もないにも関わらず、本書の指摘に納得してしまったのは、何らかの情報から作家や作品のことを知っていたのだろう。読んでもいないのに印象付けられる作家とその作品、
おぉ、それってまさに「文壇アイドル」やん!
と勝手に思ったのでした。
とはいえ、さすがに好きでもない作家のことを読んでも面白くない。正直、パート1「村上春樹、俵万智、吉本ばなな」は苦痛だった。それでも読んだのは、「村上龍」まで辿り着きたかったから。俺の好きな作家を、斎藤美奈子はどう「批評」するのかが楽しみだったのだ。
まずは「龍批判」の前に:
両村上比較論は、いっけんもっともらしく、説得力にみちています。しかし、もしかしたらこれも村上龍の「人を少しバカにさせる力」ゆえの批評だったのではないか。
そこまでいうなら、春樹作品に登場する二人の人物(「僕」と鼠)、龍作品に登場する二人の人物(キクとハシ)でも引っ張り出して、怒涛の双子テキスト分析でもやったほうがよっぽど生産的じゃないかと私なんかは思いますけどね。P. 208
「村上龍を読んでる」と発すると、半分以上の確率で「村上春樹は読んだ・知ってる」という反応(俺調べ)。両村上比較論に意味はない。
現実(ノンフィクション)より虚構(フィクション)の分量が勝っているとき、村上龍の物語世界はリアルに立ち上がってきます。しかし、皮肉なことに、フィクションの武装を解き、虚構の分量が少なくなればなるほど、龍ワールドは無惨なほころびを露呈します。いっちゃなんだが、村上龍のエッセイに人を納得させる力はなく、ノンフィクションで現実を再構成する力はさらにありません。P.210
この後に引用されるのが『すべての男は消耗品である』(1987年)で、私もかなり前に読んだ記憶がある。そして「村上龍、オモロないわぁ」と、このシリーズは数冊だらだらと読んだものだ。その頃から、一旦、プッツリと村上龍作品を読まなくなったと思う。
2009年に「案外、買い物好き」を読んで
と書いてる自分がいる。が、その当時は「小説が読めない病」で、少なからずその影響はあったと思う。今のことろ、村上龍エッセイを読む気は失せてる。
そして『ラブ&ポップ』:
思うに、ごく最近村上龍を読むのを止めたのは、『ラブ&ポップ』のあとがきの「(女子高生のみなさん)私はあなた方のサイドに立ってこの小説を書きました」というワンフレーズが、「なにかい?きみはあまりに異なるものにはじめから一気に親和するのかい?」という疑問を私に喚起したからだ。そしてその疑問は未だ、気持ち悪いもののままである(赤坂真里「違和との遭遇」/「ユリイカ」臨時増刊号1997年)P.215
作品は読んだが覚えてない、つまり「面白くなかった」のだろう。
「気持ち悪い」までの批判はないが、「村上龍、女子高生へのインタビューなんて無理だろ?」とは思う。私は、男なら子供へのインタビューはできなくはない。自分のガキの頃の経験と照らし合わせて、聞きたいことはある。しかし女子中・高校生とは、何を喋るべきか全く想像できない(そもそも俺にそんな興味は微塵もない)。ちなみに、『希望の国のエクソダス』取材ノートでの、中学三年生へのインタビューはまだマシだが、それでも面白くはない。
いやいや、今回の斎藤美奈子作品も、良質な「ガイドブック」でありました。
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