冠婚葬祭のひみつ 著者:斎藤美奈子 発行:2006年5月12日初版 |
「冠婚葬祭」と言っても、結婚式と葬式が主で、残りの「冠」と「祭」を意識することは少ない。本書から「冠」「祭」のことを知り「なるほど」となったが、やはり結婚式と葬式に関する記述が多い。世の関心もその二つだろう。
私は、世界の結婚式と葬式に詳しくはないが、日本はかなり特殊なように思う。8年ほど前に読んだ椎名誠の「ぼくがいま、死について思うこと」は未だに印象深い。久しぶりに当時の投稿を読み返しても、書いた頃の記憶は鮮明だ。世界の「死との向かい方」は様々だが、日本のそれは、やはり特殊なように思えた。
日本での結婚式と葬式は、伝統や習慣というより「ビジネス」で「動かされている」ような気がする。そこに「ファッション化」や「トレンド」があるのも特徴で、この100年は特に顕著だ。
この先、日本の冠婚葬祭は、どこへ向かうのだろうか。どこへ向かうにしても、冠婚葬祭がこれまで通りの「しきたり」や「作法」ですむ問題ではなくなってきたのは事実だろう。冠婚葬祭マニュアルはマニュアルの使命として「型」の伝授に努めてきた。しかし、これまで見てきたように、「型」は時代の要請に合わせて変幻自在に姿かたちを変えてきたのである。冠婚葬祭は一面では「結婚」や「死」という人生の重大な局面に隣接した事態だが、一面ではビジネスであり、ファッションだ。神前結婚式が発明され、近代的な火葬が普及してからすでに百年。現代の冠婚葬祭は、当時の大変革にも負けないほど、おもしろいことになっている。マニュアルに頼る時代から、自分で自分の行動規範を決める時代へと、このジャンルも確実に変化しているのだ。P.98
割愛するが、「ビジネス化」する背景も本書の指摘に同意する。
次は本書の「あとがき」から:
お作法の先生がすべてを牛耳っているようなやり方でいいのだろうか、そんな疑問があったのも事実ではある。冠婚葬祭マニュアルが人々の行動規範になっているのだとしたら、マニュアル自体も批評の対象になっていいはずだ、と。P.223
この手のマニュアルは溢れている。「溢れすぎ」の印象すらある。そんな「分野」を、本著者はいつもの「斎藤節」で「噛み砕いてくれる」。私が読むことはない(嫌いな)分野も、著者のおかげで「消化」できた。著者に感謝したいぐらいだ。
大人になってから、ど田舎の結婚式・披露宴(「何ならご近所さん全員出席の宴」みたいな奴)から、時間制の都会の「今」の結婚式・披露宴に出席した。今後「ど田舎型」の奴に参加する機会はないだろう(ちょっと寂しいかな...)が、「今風」の奴への出席はあり得るだろう。
いただけないのは花嫁の父から花婿へと花嫁が「引き渡される」あの儀式である。第1章でも述べたように、あれは必ずしもキリスト教の「決まり事」ではない。P.116
本書では、その「決まり事」も「変わりつつある」とあったので、もう「今」ではやっていないのかもしれない。が、神前の式と比較して、教会の式は妙に「ウソくさい」と思ってしまうのは何故だろう?参加している方が恥ずかしくさえある。
あと「バージンロード」も和製英語です、念のため。P.117
わはは(笑)、絶対に「和製英語」だと思ってた。
さて、とこのように、冠婚葬祭に宗教行事はつきものだ。新道で生まれて、キリスト教で結婚し、仏教で死ぬ日本人。クリスマスの一週間後には除夜の鐘を聞き、年が明けたら神社に初詣に出かける国。日本では宗教に対する態度がきわめて寛容である。
宗教上の対立がテロや戦争に発展する現在、この寛容さはむしろ誇っていいことのような気がするが、多文化共生時代を生きるためには、多少の配慮も必要だろう。P.151
「新道で生まれて、キリスト教で結婚し、仏教で死ぬ日本人」を外国人に英語で説明しようとしたが、諦めた。「何故」と質問されるに決まってるし、それに応えるのは日本語でも難しい。この場合、「日本文化とは」を踏まえていない回答は正しくない。
「宗教に対する寛容さ」の背景には、個人的な想像だが、現代の日本人(日本文化)は
宗教の違いによる争いを本能的に避けている
ことが、あるかもしれない。
宗教の違いの争いは、どこまでも「平行線」で、折り合いをつけるのは困難。ならば「良いところは、何でも受け入れよう」との寛容さの立場を取るのは、確かに「日本的」という気がする。
とはいえ、これが一般論かは不明で、かつ普遍的なものとは断定できない。100年後は違っているかもしれない。そもそも100年後は、「日本的」とか「欧米的」とかの「地域別」のカテゴライズの意味は薄れている気もする。そうなると、「宗教への寛容さ」は当たり前になっていることだろう。
日本ではその頃、どんな冠婚葬祭になっているのだろうか、想像もつかない。
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