小森陽一、ニホン語に出会う 著者:小森陽一 発行:2000年5月30日第三刷(初版2000年4月10日) |
日本語に関する本を読みたくなっている。きっかけは、読んでる途中の斎藤美奈子の「本の本」。この「小森陽一、ニホン語に出会う」もその紹介で知った。まずは、斎藤美奈子の書評から:
東大の先生で、専攻は近代文学。と聞けば、さぞやご幼少のみぎりから日本文学に親しんでこられたのだろう、とだれしもが想像する。二宮金次郎みたいに歩きながら本読んでたんじゃないか、とか。小森先生、いやコモリ少年はちがった。少年時代のコモリ君、じつは日本語さえもあやしかったのである。(「本の本」P.257)
次は、コモリ少年が日本に帰国した小学校六年生の出来事:
ある日、例のクスクス笑いにがまんならなくなった私は、立ちあがって、みんなにむかって、何がそんなにおかしいのか、という怒りをぶつけました。しかし、かえってきたのは教室全体をゆるがすような大笑い。それは、そのとき私の口をついて出たことばが、「ミナサン、ミナサンハ、イッタイ、ナニガオカシイノデショウカ」という、完全な文章語だったからです。P.23
上記は「日本語は言文一致じゃない!」から。
日本で生まれ育った私は「言文一致」に疑問を持ったことはないが、確かに「一致していない」との体験はある。それは「日本語の文章を思うように書けない」と気づいたとき。特に、2013年「おとなの小論文教室。」 などの「文章の書き方」の本を読みまくった頃は「文章を書けるってどういうことだ?」との疑問と同時に、「思うように書けない」ことがもどかしかった。
日本語は以前よりは「思うように書ける」。自分なりに「伝えたいこと」を「伝わりやすいよう」に工夫しながら書けるようにはなった。良い文章かどうかは知らない、それは他人の判断に委ねる。
現在、苦しんでるのは英文ライティングだ。英語で聞くことと話すことは概ねできるが、書くのは難しい。英語が「言文一致」かどうかは厳密には知らないが、私にとっては「言文一致」ではない。あらゆる言語で「話すこと」と「書くこと」は別だと思っているから。
そんな私だが、本書で気づいたのは「なぜ私が古典の本を読まない」理由。例えば本書にもある夏目漱石の作品。学校の教科書で読んだ記憶もないほどに興味がない。10年ほど前に手に取ったが、数ページで断念した。
古典作品、映画や音楽だと楽しめるのに、文学だけは違う。そのうち、楽しめる時が来るかもしれないので、「嫌いではない、興味はあるが読めない」のが現在なのだろう。
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