2024年5月12日日曜日

1979年のアントニオ猪木

1979年のアントニオ猪木

著者:柳澤健(やなぎさわたけし)
発行:2007年4月5日第二刷(初版2007年3月15日)

非常に面白かった、「日本ではちゃんとした調査報道が少ない」と嘆いているが、素晴らしい内容。アントニオ猪木ファンやプロレスファンが怒ってしまう内容かもしれないが、「ひとつの真実」として受け止めるべきだろう。「事実」はアントニオ猪木しか知りようがないし、本人が「事実」を話すとも限らないのだ。

アントニオ猪木を語れるほどの情報も知識も持ち合わせていないが、本書を読むと、次の一文に納得する:
巨大なる幻想を現出させ、観客の興奮を生み出すのがプロレスラーであるならば、アントニオ猪木こそが世界最高のプロレスラーであった。P.395

そんな私は、プロレスファンだったことはない。

とはいえ「テレビの娯楽」として観ていた頃もあった。好きなプロレスラーを挙げるなら

  ブルーザー・ブロディ、グラン浜田、タイガーマスク

ブロディは例外として、「ルチャリブレ」と言われる「スピード感のあるプロレス」を好んだ。「パワーレスリング」が好みじゃないが、ブロディは「スピード感」があって好きだったし、何といっても「本物感」があった。逆に「本物感」が薄れる、娯楽の要素だけが強まって「プロレスはスポーツではない」と感じるようになった頃には、すっかり観なくなった。今に繋がる「総合格闘技」MMA (Mixed Martial Arts) の登場の頃も全く興味がなかった、それは今も同じ。

5年近くボクシングをやっているが、格闘技よりスポーツの意識の方が強くある。「殴り合い」ではあるのだが、技術が身につくにつれて、「駆け引き」「騙し合い」「戦略」の要素が強くなる。相手を「痛めつける」など毛頭にもない、そんなことすれば練習相手がいなくなる。

本書は私の長年の疑問である「プロレスとは何か?」に明確に答えてくれた。以下、印象に残った点を取り上げる。

アリと猪木

第四章「リアルファイト モハメッド・アリ戦」の「扉」の記述:
台本どおりのプロレスをやるつもりで日本に来たアリに、猪木は真剣勝負を挑む。「世紀の凡戦」は実は、生命をかけた死闘だった P.205

プロレスファンならずとも、この出来事を知っている人は多いと思う。「凡戦」との評価だけが広まり、「本当のこと」は知られて(理解されて)いないのかもしれない。本書だけで事実を把握するのは困難だが、今までの誤解の多くは解消されるだろう。

現在の総合格闘技の視点から「アリ戦」を振り返ると、さらにこの対戦の意義が分かる:
1976年に”世紀の凡戦”と評されたアリと猪木の試合が退屈だった原因はルールではなく、お互いの技術不足にあったのだ。P.390

日本のプロレス
日本は世界最大の総合格闘技大国である。
(略)
日本以外の国で総合格闘家やキックボクサーが尊敬を集めることはまずない。ポルノ男優や女優と同じように、人のできないことをする異界の住人として恐れられ、遠ざけられるのが普通だ。P.6

これが本当だとすれば、日本のプロレスは「異質」ということになる。そんな「異質」となった背景には「歴史」がある:
アントニオ猪木のプロレスとは何か?
レスリングの匂いのするプロレスである。
プロレスはプロフェッショナル・レスリングの略語である。だが猪木以前に日本プロレス界のエースであった力道山、豊登、ジャイアント馬場のプロレスにレスリングの匂いを嗅ぐことはできない。
力道山の必殺技は空手チョップであったし、やはり相撲出身の豊登は怪力殺法が持ち味であった。ジャイアント馬場の代名詞である十六文キック、三十二文ロケット砲(ドロップキック)、椰子の実割り、脳天唐竹割り、ランニング・ネックブリーカー・ドロップは、レスリングの片鱗すら感じさせない。驚くべきことに、日本のプロフェッショナル・レスリングはレスリングではないのだ。P.26

後にアマレス出身のプロレスラーも登場するのだろうが、日本プロレス黎明期に「レスラー」が居なかったことに驚くと同時に、納得するところでもある。「空手チョップ」の方が、レスリングの技より「派手に見える」のだ。

ブラジリアン柔術をやっているインドネシア人の同僚に、以前「試合を見に行くよ」と言っても「ごろごろ寝転んでるだけで、見ていても楽しくないですよ」と返された。確かにそうかも、寝技の掛け合いなど「事情」を知らなきゃ「寝転んでるだけ」にしか見えない。

だが、1970年代に猪木が作り上げたプロレスはもはや単純なハッピーエンドではなくなっていた。どちらが正義の味方でどちらが悪者か。何が一流で何が二流か。そんなものは見方によって変わる。シンの右腕が「本当に」折れていたのか。そんなことはどうでもいい。重要なことはイデオロギーでもブランド趣味でも真実であることでもなく、ただ快楽的であることなのだ。P.49

「腕折り」「失神」「流血」などなど...。それはスポーツではあり得ないし、仮にパフォーマンスだとしても「次の試合に出れない」ほどの負傷は、プロレスラーにとっては「働けない(お金が貰えない)」ことで、現実にはあり得ないと考えるべきだろう。

「勧善懲悪の物語」P.67 で、プロレスに対して長年の疑問が解決:
スポーツの目的は勝利である。スポーツマンは必ず勝利を目指す。
だがプロレスはスポーツではない。プロレスラーは勝利を目指さないからだ。
(略)
ならば、なぜプロフェッショナル・ボクシングがスポーツであり、プロフェショナル・レスリングがどうではないのか。
殴り合いに比べて、取っ組み合いは見ていて退屈だからである。
(略)
それぞれの試合はフリージャズのようなものだ。あらかじめ決められたテーマ(主題)でスタートし、途中はいくつかの得意なフレーズ(技)を散りばめつつも各自の即興にまかせ、最高に盛り上がったところでエンディングテーマに突入し、フィニッシュする。20世紀末からは試合中のすべてのムーブ(動き)がキッチリと決められるようになった。試合開始のゴングからフィニッシュまでの動きをすべて覚えるのだから、レスラーも頭が悪くてはできない。
(略)
かつて退屈な取っ組み合いであったプロフェッショナル・レスリングは純然たるエンターテインメントに変貌することで観客を集め、レスラーたちはようやく生計を立てられるようになったのだった。

「プロレスは八百長」も「正確には違う」との本書の記述にも納得。スポーツでない以上、八百長云々の議論に意味はない、プロレスは「娯楽」なのだ。

アントニオ猪木とはプロレスラー以前に「ショーマン」なのだろう。そして「猪木が作り上げたプロレス」も「ショー」であり、プロレスラーは "showman" "entertainer"、つまり「芸人」なのだ。一流の芸人は数少なく、アントニオ猪木はその一人に間違いない。

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