パーネ・アモーレ イタリア語通訳奮闘記 著者:田丸公美子 発行:2004年9月10日初版(単行本:2001年7月) |
核兵器廃絶に関する会議前の通訳打ち合わせの最中だった。主催者から直前になって大量の文書を渡され、緊張と焦りで皆剣呑(けんのん)な顔をしている。そこへ場違いな水商売風の化粧と服装の女が現れて、「イタリア語通訳の田丸です」と名乗り、続いて素っ頓狂なことを口走った。「ねえねえ、今度、念願の犬を飼うことになったの。訓練してバター犬にしようと思って…」「エッ、バター犬て何?」そこにいた英独仏西露中各国語の同時通訳者たち一同、途端に落ち着きを失った。職業柄、意味不明な概念があると気持悪くて仕方なくなるのだ。すると田丸さん、谷岡ヤスジの漫画に登場するという名のキャラクターについて立て板に水の素早さで簡にして要を得た解説をしてくれたのだった。爆笑。一瞬にしてピリピリと張りつめた空気が和んだのはいうまでもない。P.288
この解説は米原万里で、彼女の『不実な美女か貞淑な醜女か』を読んでから、通訳者、特に同時通訳者に興味を抱いた。それで最初に目に止まったのが本著者、田丸公美子。米原万里はロシア語、そして田丸公美子はイタリア語。私にはまったく未知な言語であるからこそ、言語的にも文化的にも興味深い。
おまけに、この二人が揃って「面白い」のだ。ニックネームは、田丸が「シモネッタ」(説明不要)で米原が「エッ勝手リーナ」(権威をほしいままにしたエカテリーナにちなみ P.21)。
先に、通訳はその言語の国の持つイメージに同化すると書いた。私は、国際会議で知りあった他言語通訳四名と友人になり、時々食事や観劇を一緒にしている。(略)
不思議なことに、この友人グループの中でも国別に序列のようなものができあがっている。当然、英語とロシアが東西二大ブロックで、会を取りしきる構図になっており、私は両人を西太后さま、東太后さまとお呼びしているのだが、その一人、ロシア語通訳の米原万里さんは近年出版に、テレビにと時代の寵児となっている。
(略)フランス語通訳のUさんは、英・露どちら側に与するでもなく、独自の路線で気のおもむくまま動き、どことなくこれもフランスの外交路線に似通っている。そしてスペイン語、イタリア語は悲しいかな、彼女たちの間を太鼓持ちのごとく動きまわり、笑いをとる役回りなのである。P.21
20年以上前に書かれた本書だが、現在の「序列」と同じなのかは不明だが、通訳者の「立ち位置」が外交関係や国力と関係するのは想像できる。こんな関係が築ける?のも「通訳の世界」ならではの魅力を感じる。通訳者の仕事が大変なのは理解してるつもりだが、それに勝る魅力は本書からも読み取れる。
本書の執筆時、世界で国際化が進み、加えてインターネットの利用拡大:
パソコン公用語としても認知された英語は、もはや世界語としての地位が確立されたようだ。旧約聖書の時代から数千年、ついにバベルの塔は崩れ、まもなく全員が英語で交信するようになるのだろうか。P.261
体感として、私がガキの頃より、世界の多くの国で英語を使う人が増えた印象がある。2016年12月に投稿した「英語母語者がメジャーから転落した時」で引用:
英語母語でない人の数が、ついに大きく英語母語者を上回った。約17億5千万人が世界で実用レベルの英語を話す、2020年までには 20 億に達すると予想される。
この2020年を予想した人数が正確だったか知らないが、2016年から増加したのは確認するまでもないことだろう。
では英語以外の言語は、すべて「英語経由」で翻訳すれば良いのだろうか? 私の見解は「NO」、明らかに「No!」。下記引用は簡潔化したが、詳細は本書を参照:
数年前、北野武氏が『HANA-BI』でヴェニス映画祭グランプリを受賞したときのイタリアニュース映像を見た。(略)北野氏の後ろに、通訳のイタリア人女性が立った。テレビ映りのいい若い美人である。受賞コメントを求められたたけしは、いつもの不明瞭な早口で、
「今度またイタリアと組んでどこか攻めよう」
(略)後ろの女性の顔が一瞬こわばり、日本語でたけしに「せめようって何ですか」と小声で聞いているのが音声に入った。たけしはこれはダメだと瞬時に悟ったのか、今度は英語で叫んだ。
"Let's try again with Italia and go to some country to war!"
しかしこの英語で、メッセージが正しく伝わるわけはない。(略)(略)(再びイタリアと同盟を組んで、どこかの大国に文化で戦いを挑もう)
とでも訳出するだろう。そうすればイタリア人だけでなく、ハリウッドに押されて焦燥感を募らせている欧州映画人を歓喜させ、会場は大沸きに沸いたはずなのにと、非常に残念だった。P.255
上記のような「良い訳」を生み出すには最低でも以下の知識が必要:
・war(戦争)を使うのは不適切
・第二次大戦で日本とイタリアは同盟国
・欧州映画とアメリカ映画の市場規模の違い
これらに言語的な条件はないので「英語で良いじゃん」との反論には納得。しかし、「それで良いのか?」との疑問は捨てられない。
先日出張先の京都で、日本語のカタカナ(特に和製英語)に苦労している話を、アイリッシュパブのアメリカ人とした。同様のことは本書で、英語ではない外国語に英語がそのまま(あるいは「似た英語」で)使われていることを知った。例えば、イタリア語の中に「イタリア語っぽい英語」が混入される場合など。
名詞を外国語にするうちはまだ汚染も初期。動詞が外国語になり始めたら危機的状況らしい。日本語でパニくる、ゲットする、を使い始めたころ、イタリア語でも、機械のテストをするときテスターレ(testare)と言い始めた。今やスポーツ関連、コンピュータ関連の動詞は英語オンリーである。クリックするはクリッカーレ(clicare)、インプットするはインプッターレ(imputtare)と、コンピュータ用語の影響で日伊双方の動詞も英語化するばかりである。P.269
その京都のアメリカ人に「ガキの頃は、英語圏の国に生まれたかったと思うこともあったが、今では日本語圏で生まれて良かった。日本語は好きだけど、外国人として日本語を学ぶのは、英語より難しいから」と英語で伝えたところ、非常に納得してた。彼は京都の大学生で、生物の研究者、日本のアカデミックな論文では「(ほとんどの)生物名が漢字」なのに苦しんでるそうだ。そんな彼に「普通の日本人でも読めないよ、それ」と励ますと「知ってます(泣)」と笑顔で反応した。
二か国語以上を話す日本人の日本語は、そうじゃない日本人より「比較的に明確」。逆に「日本語が雑」な人に、外国語が上手い人はいない、と経験上確信している。言語以外のコミュニケーション手段があるのは認めるが、「まずは言葉から」ではないだろうか。そのことを放棄したとき「その人の世界は狭まる」とは考え過ぎだろうか?
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