前作:月夜にランタン
| 名作うしろ読み
著者:斎藤美奈子 発行:2013年1月25日初版 |
『坊ちゃん』夏目漱石、『雁』森鴎外、『風立ちぬ』堀辰雄、『檸檬』梶井基次郎、『潮騒』三島由紀夫、…『異邦人』アルベール・カミュ、『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ、『はつ恋』ツルゲーネフ、『若きウェルテルの悩み』ゲーテ、『ハムレット』シェイクスピア、...
本書では上記以外に、もっと沢山の本が紹介されている。
さて、ここに挙げた作品名、著者名は共に知っているが、読んだのは『異邦人』だけ。それも日本語訳ではなく英語訳版の "The Stranger"。ちなみに、私は自分のことを「読書家」とは思っていないので、「名作」と呼ばれてるものは「読んでいない!」と言い切れる。とはいえ、本書を読んで驚くのは、「本のタイトルや作家名を知ってる」ことの多さ。
「読んでないのに、なぜそんなに知ってるのか」を考えてみたが、思い当たるのは一点。大学生の頃に「本を読む人に憧れた」時期があって、三島由紀夫やドストエフスキーなどを読み漁った。二年ほど頑張って読んだが、正直言って「内容はまったく分からない、面白さは微塵も感じなかった」のだ。単に「文字を追ってるだけ」であって、あれは読書ではなかった。
「名作」の定義は曖昧だが、当時の私が「名作を読むことに憧れたふし」は間違いなくある。その過程で著者や作品名を知った可能性が高い。しかし社会人になる頃には、その憧れの気持ちは消え失せた。読む本は数人の好きな「現代作家」だけとなった。
今では「名作」というより「古典文学」を味わいたいとの希望はあるが、斎藤美奈子本のおかで「なんだ、別に読まなくても良いいじゃん」と、良いのか悪いのか分からない認識になった。本書もそんな「助け」になった。彼女の書評だからこそ読めたし、いい意味で「読まなくても良いじゃん」との気持ちにさせてくれる。
とはいえ、逆に「読みたい」という発見もあるのが嬉しい。今回は有吉佐和子に「出会った」。
『複合汚染』や『恍惚の人』など、有吉佐和子は社会問題を扱った作品のイメージが強い作家かもしれないが、それは晩年の話。彼女は堂々たる近代文学の書き手でもある。和歌山県の名家を舞台に明示、大正、昭和の女三代を描いた『紀ノ川』もそのひとつ。P.72
『紀ノ川』も読んでみたいが、ノンフィクション好きとしては『複合汚染』を手にとって読んでいる。かなり衝撃的な内容だが非常に興味深く読んでる。
何らかの作品を評価する人をここでは「批評家」としよう。
名作の「頭」ばかりが蝶よ花よともてはやされ、「お尻」が迫害されてきたのは何故なのか。「ラストがわかっちゃったら、読む楽しみが減る」「主人公が結末でどうなるかなんて、読む前から知りたくない」そんな答えが返ってきそうだ。「ネタバレ」と称して、小説のストーリーや結末を伏せる傾向は、近年、特に強まってきた。しかし、あえていいたい。それがなんぼのもんじゃい、と。お尻がわかったくらいで興味が半減する本など、最初からたいした価値はないのである。っていうか、そもそも、お尻を知らない「未読な人」「非読な人」に必要以上に遠慮するのは批評の自殺行為。読書が消費に、評論が宣伝に成り下がった証拠だろう。P.290
斎藤美奈子らしい。主に彼女の書評を読んでいるが、彼女をのぞいて「日本の書評て褒めることしかしない」。それは映画も同じで「酷評」は日本ではされてない気がする(今は知らない)。
日本では「真の批評家は少ない」のかもしれない。日本の「村社会」を反映してるとも言えるし、単に「マーケティングのため」かもしれない。つまり、「悪口と取られる行為や発言は慎む」との雰囲気がある。良い面もあるだろうが、その状況では少なくとも「芸術は育たない」と私は思う。
でもね、批評するには「それ相当の知識が必要」なのよ。また、「批評される対象になる」ことはある意味で「名誉」とも言えるのにね(笑)

0 件のコメント:
コメントを投稿