2010年12月21日火曜日

不道徳教育

Walter Block(ウォルター・ブロック)著 橘玲(たちばなあきら)訳
2006年2月2日 第1刷

本書は1976年出版の "Defending The Undefendable" (擁護できないものを擁護する)の翻訳本です。より正確には「意訳本」。どう意訳かというと、原書は今から30年以上も前のアメリカの事情を背景にしたものなので、これを現代の日本人にとって自然な日本の事例や表現に置き換えられています。

とはいえ、原書の主張には手を加えられていません。つまり、30年後の現在の事例にも適応するということであり、その点でも大い熟考に値する主張です。更に、原書から除かれたいくつかの項目は、30年の時を経て不道徳と見なされなくなったものです。その点は後ほど書くことにします。

本書の各章を羅列してみます。

売春婦、ポン引き、女性差別主義者、麻薬密売人、シャブ中、恐喝者、2ちゃんねらー、学問の自由を否定する者、満員の映画館で「火事だ!」と叫ぶ奴、ダフ屋、悪徳警察官、ニセ札づくり、どケチ、親の遺産でクラス馬鹿息子、闇金融、慈善団体に寄付しない冷血漢、土地にしがみつく頑固ジジイ、飢饉で大儲けする悪徳商人、中国人、ホリエモン、ポイ捨て、環境を保護しない人たち、労働基準法を尊守しない経営者、幼い子どもをはたらかせる資本家

羅列や抜粋という行為は、自分が文章を書く上であまり好きではない行為なのですが、今回は本書の特徴を表す上で効果的です。本書のタイトルだけで何割か、そしてこの各省のタイトルで更に何割かの読者を遠ざけている可能性はあります。それは残念なことです。

大抵これらの行為をする人たちは、不道徳とみなされ悪人として非難されます。ところが本書ではこれら全てを容認して、おまけに彼らをヒーローとして高く評価しています。

不道徳教育
不道徳教育
posted with amazlet at 18.04.02
ブロック.W
講談社
売り上げランキング: 353,690
こうなると所謂「トンデモ本」と扱われる可能性は大なのですが、「エセ化学」や「オカルト」の類ではありません。主に経済学や市場経済理論を冷静に駆使して、整然と理論展開して証明しています。「なるほど」と驚くという意味では「トンデモない本」かもしれません。

本書の理論展開の「エンジン」は「リバタリアニズム(自由原理主義)」にあります。私はこの言葉を本書で初めて知りました。

国家の機能を小さくして市場原理によって社会を運営する思想

とのことです。世界標準(グローバルスタンダード)の理解では「市場原理主義」や「小さな政府」がリバタリアンの思想を指すようです。

本書を適切に理解するには、本来はこのリバタリアニズムへの理解が必要ですが、無い場合でも上記に羅列した数々を「不道徳ではない」と証明する本文には納得はいくはずです。少なくとも私はそうでした、納得しました。理論の展開に違和感を多少感じた点もあったが、それはリバタリアニズムへの理解不足のためのと認識しています。

ここで、上記の「不道徳」(と世間では見なされる)な人々を「ヒーロー」とする例を挙げたいところですが、それは割愛します。

私はいつの頃か、ほぼ自活し始めた大学生の頃からでしょうか、「世間とは何だろう」という漠然とした疑問を持っていました。本書でその漠然とした思いが晴れたかもしれません。それ、すなわち「世間」が「道徳」とほぼイコールということに気づいたのです。

「法律破り」ならば「悪人」でありその行為は「不道徳」

という理論は矛盾であることが多いのです。面白いのは逆は常に真ではないこと。つまり

「不道徳」な行為をする人は「悪人」でありそれは「法律を破っている」

にはならないこと。つまり矛盾しているのです。

ポイントは「法律」です。そして大抵それらは国家が作るという点もポイントです。ここで「法律論」を展開するのは間違いです。法律の解釈や法律同士の関連性を考えたところで、その「狭い」法律の世界から抜け出ていないからです。別の視点が必要なのです。それが「市場原理主義」の視点です。

例は割愛するとしながらも、一つだけ分かりやすい例を挙げると

治安の悪いことは公共の場で起こり
多くの人を集客する百貨店内では大抵起きない

百貨店が治安が悪いと客は来ません。経済合理主義の上で「発生させない」インセンティブが働くからです。

こういうと、「多くの公共サービスの全てを民間に」という主張に解釈されそうですが、誤解を恐れなければ「その通り」ということになります。但し、我が国の政治家の主張する「小さな政府」とはスケール面では全く違います。リバタリアニズムのいう「小さな政府」と比べて、我が国のは大いに中途半端なのです。

みんながみんな市場主義だと
少数の勝ち組だけになり世知辛い世の中になってしまう

のような反論こそが「不道徳」という言葉に寄り添った誤った主張で、その感覚が第一にある人たちには本書の主張は受け入れられないでしょう。

そのような人たちが求めている姿こそが、私には良く分からないことが多い。「みんなが平和に暮らす社会」と主張するのは良いのですが、それがどんな「ユートピア(理想郷)」を描いているのか不明です。声高に曖昧な主張をする方々の目的は、往々にして自らの「既得権益保護」のように映るのは、意地悪過ぎでしょうか?

「人っていうのは所詮自分自身が一番可愛いのです」という乱暴な発言で話を終わらせる人は最初から論外です。思考停止している人たちです。彼らは、自分一人ぼっちのユートピアでエンジョイすれば良いと思います。

市場主義やグローバルスタンダードは一時の流行ではなく、わが国はどっぷりとそれに浸っているのです。その事実を抜きに、古臭くて不適切な法律や、哲学や思想とも相容れないような「道徳」を振りかざすのは論理的ではありません。

私は人間の行為の全てを理論的に解釈しようとは思いません。時には「感情」で動いて、思わず笑ってしまうことがあるのが人間で、だからこそを私は「人が好き」なのです。とはいえ、誤った「道徳」で「恣意的な正義」を振りかざす人は受け入れ難いのです。そんな人たちは、可能な限り無視するしかないのですが、それも避けられないのが「世間」であり「社会」なのです...。やはり「笑って静かに無視」することにします... ^^;

原書から外された今では「不道徳」とはみなされない仕事があります。例えば、「宣伝屋」は今の「広告代理店」、「ブローカー」は今の「卸売業者」です。どれも今では「不道徳」とは言われることはありません。そして、今でも多くの人が不道徳とする「売春婦」「麻薬密売人」は、ある国(れっきとした先進諸国)では既に合法です。本書のいくつかの項目が「不道徳」でなくなる日は、そう遠い日ではないと思います。

道徳って一体何だろう?どうやら「今」のそれは、未来の「希望」のためにはならないようです。むしろ、疑った先にこそ希望があるようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿