2005年3月25日第一刷
2011年春の出来事、高々484人の北朝鮮の特殊部隊から福岡、そして実質九州を占拠されるというストーリー。
この本の発売の頃、私は福岡にいた。そして第一刷から間もなくして購入した、仕事帰りに職場の目の前にあった福岡天神の書店。福岡に住んでいて、福岡が占拠されるストーリーに惹かれた訳ではない。「愛と幻想のファシズム」「5分後の世界」「ヒュウガウィルス」のテイストを求めていた。当時の精神状態で求めていたのは「村上龍的硬派な世界」であったのかもしれない。
没頭して読んだ。先遣隊の北朝鮮コマンド9人の行動や内面にはシンパシーすら感じた、彼らのシンプルな考えに惹かれたのかもしれない。しかし残念ながら、後半にかけては読むのが苦痛になり、珍しく流し読みしてしまい結末の記憶が薄かった。考えてみれば、当時はこんな長編など読める精神状態ではなかったので無理もないかもしれない。
何故に喜んだかといえば、今回シンパシーを感じたのは前回のように北朝鮮コマンドではなく、イシハラをはじめとする社会に馴染めない、尚且つ社会から排除された連中だったから。彼らは「昭和歌謡大全集」に登場する連中よりはもっと凄い連中。結果的に北朝鮮遠征軍(福岡占領軍)を倒壊させたのは彼らだったが、そのヒーロー的な行為に惹かれた訳ではない。「やれることを迷い(の心)無くやっている」彼らは美しい。シーホークホテルの爆破作業をする「美しい時間」の章は涙すら出そうになる。本来は涙する内容ではないのだが、強烈に彼らに同調していた。
反対に、前章の「通報者」で登場する主婦には、結果的に連中の大半が死んでしまう結果を作ったのだが、彼女の行動には怒りを覚えた。単なるフィクション小説を読んでいるにも関わらず、イシハラ軍団への悲劇を予感して「そんことすんなよなバカぁ~」と言いそうになった。
彼女は一見普通の市民で懸命に生きている、むしろ模範的にさえ思われる市民なのだが、何かがズレている。シングルマザーで子どもに収入に見合わない値段の有機野菜を食べさせる行為は、ある面からは評価されるだろう。自らのキャリアや地位にプライドを持つのも決してオカシイことではない。でも何かがズレている。それが何かを明らかにするのは容易ではないが、イシハラの元に集まる連中の方が「むしろまともじゃないのか?」という視点から考えるとそのズレは際立つ。
時として村上龍は近未来を予言すると評されることがある。今回それを感じたのは、小説中の政府の判断が、まだまだ記憶に新しい先日の尖閣諸島の中国漁船衝突事件と重なったこと。ニセ県警本部長の派遣、九州封鎖、大濠公園の銃撃戦など中央政府は何も判断せず、事が失敗に終わると「現場(地方)の独自判断だった」と表明する。中国人船長の釈放を沖縄検察の判断とした内閣官房長官の弁(姿勢)を即座に思い出した。
ついでにマスメディアの描き方も秀逸。もうバカバカしてくて書く気にもならない。万人に分かりやすくすることしか考えない、娯楽性しか考慮しない姿勢で真実が伝えられるはずは無いのです。
本作品は5年以上も前の執筆、しかも時は2011年春、まさに今です。本書のようには日本の経済状況も立場も悪化していないのは幸いで、北朝鮮遠征軍が来るとも思えない(今の北朝鮮に、本書のようなオペレーションができる想像力は無い...、ちょっと残念だけど...。)。だとしても本書のリアルさが損なわれることはない。フィクションだけれども、ある意味真実も語られている。オンライン書籍のサイトにこのブログに掲載した「愛と幻想のファシズム」を書評として投稿したとき、「サバイバル読本」と題した。誰かの助けを期待する姿勢では「サバイブ」することなどできない、と今回も教わったのであった。
PS
英訳の村上龍作品を探して何冊か購入したが、私が考える「村上龍的硬派作品」の英訳はされていないのを知ってガッカリ。同じ村上の春樹の方は大概訳されているのにね。思うに、村上春樹の作品は英訳しやすいのでしょう。著者自身は意識しているか分からないが、彼の作品に日本固有のテイストは薄いと思うし、自分の作品を海外の視点で捉えていると思う。村上龍の作品に海外の視点が無いとは思えないし、ちゃんと訳すれば高い評価を受けると思う。その「ちゃんと訳す」が難しいのかもしれない。将来出版されるのを期待したい。
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