発行:2015年6月30日(初版)
3日間、仕事を終えた夜に読んで、今読み終えた、午後10時38分。そこら辺の映画より断然面白かった。そのことは、末尾の「文章が映像を超える」に書くことにする。
2005年の「半島を出よ」以来の、私の好きな「村上龍小説」だった。彼の作品は3月に英語訳の「In the Miso Soup」を読んで以来。他にも好きな著者のテイストもあるが、このテイストは堪らない。「痛いほどのリアリティの下、サバイブする」という意味不明な表現が浮かぶが、そんなテイストだ。
本フィクションの舞台は2018年、東日本大震災後、2020年の東京オリンピックが決定している日本が舞台だ。
財政はほとんど破綻して、アメリカをはじめ、周辺の各国から無視されていて、再編を繰り返す政党と政治家は無能で、政治への信頼などかけらもなくなり、去年の総選挙の投票率は40%を切った。だが衰退と没落に気づこうとしないのか、あるいは国民の怒りを忘れたせいか、デモさえ起こらない。もちろんストライキもない。通り魔は頻発しているが、テロは、国内では死語になりかけている。P.6
「日本が周辺各国から無視」を除いては、私の無知もあってか、どういう状況なのかの理解はしずらいが、概ね高いリアリティで想像するのは難くない。これが物語の背景だ。
私は概ね日本のメディアを無視しているので、後になって知ったのだが、昨今の東京オリンピックに関する「体たらく」は、この小説が描く「外的要因」よりもっと悲惨で滑稽な「内部崩壊」と思って笑ってしまった。現実の方が、小説にならないぐらい「低レベル」なのかもしれない(笑)
この物語を「荒唐無稽」と評するのは一向に構わない、だって「フィクションなんだもんっ!」。とはいえ、そう評する人は本書は楽しめないかもしれない。「日本が周辺各国から無視」を「そんなことは有り得ない」という一蹴することも可能だが、現実は別の意味で、フィクションよりもっと悲惨な可能性だってある。
「中国の...」「北朝鮮の...」とか断片的に語る、マスメディアに登場する専門家と評する輩にリアリティがないのはそこなのだ。つまり、ストーリー性が希薄なのだ。「だからフィクションの小説の方がリアリティが高い」とは言うつもりもないが、政治・経済・文化・モノ、そして個々人の人間の繋がりが描けてこそリアリティは生まれる。
そして、本書の「オールド・テロリスト」らが抱える「歴史」だ。
だが、****たちが抱いた憎悪は理解できる。多かれ少なかれ、今の日本では誰もが同じような憎悪をもっているはずだ。しかし、おれも含め、みんな、その憎悪に気づかないふりをして生きている。その事実が、おれを憤慨させている。P.561
これも本小説の土台の一つ。もしかして「この憤慨」こそが本小説の原動力かもしれない。
「****」の部分は登場人物名だが、ネタバレになりそうなので伏せた。こんな引用をすると「思想が右とか左とか単純化されそう」と頭をよぎったが、「それほど単純じゃないよ」と、そんな批判なんて無視しようと決意して引用した。
「Yes! 私も憤慨してます!」なのです。自分にとって社会に何ができるのか分からないが、少なくとも今は「一生懸命勉強してます」とは答えたい。私が好ましいと思うのは「甘えのない社会」ということです。これ以上は、書けないけどね...。
作家も変わるし私も変わった
本書は「希望の国のエクソダス」と続編として読むと楽しかった。
2008年に「希望の国のエクソダス」を二度目に読んで、当時の私の投稿の最後に「もっと勉強しなきゃな!」と書いている。それをどこまで実践できたか心もとないが、少なくとも政治・経済を学び直して、一定の知識は得た。特に経済や為替の動向など、本も読み漁ったし、ある意味で参加もした。
私のことはどうでもよくて、何よりもその投稿でも書いたが、作家村上龍が未だにエキサイティングな小説を2015年の今でも書いていることだ。そのことに敬意を表する意味でも、ここまで既にたくさん書いたが、まだまだガッツリ書かせて頂きます!(笑)
作家に限らず、好きなミュージシャンらに期待する作品はある。だが、基本的には彼らの自由に委ねたい。本書の続編のような小説を今後も期待したいのは偽らざる気持ちだが、それを強要する気はない。何故なら、我々の期待を裏切るような面白い作品を期待しているからです(笑)
次は、本書を読んで、直感的に感じたことを列挙した。
- 一見正常でない人が実は正常
- 「普通て何だ?」「みんなって誰だ?」
- オバさんの図々しさが蔓延(本当の強者が隠れ、弱者が台頭化)
- そんな図々しく全員が生きられないし「図々しさを制御」してこその社会
挙げたいことはもっとあるが止めた。ある一面でしか社会や文化を見れない人には、想像できない(無視している?)ようなことばかりです。
こんな風に想像力掻き立ててくれ、また日頃漠然とした思いを確信できるような作品は楽しい。素晴らしい啓蒙書的な本もあるが、小説だとさらに想像力を広げられるようで楽しかった。最近読まなくなった小説を再び読み出すきっかけになったかもしれない。
メディアは2018年にも変化なし?
本投稿でも、日本の大手メディア批判は痛快で、それまでの著者の批判より更に指摘は鋭くなったと共感した。
彼らマスコミの連中が偽善者だと言うつもりもないし、嘘を報じると言うつもりもないし、権力の側について事実を隠蔽していると言うつもりもない。単に、能力がないのです。事実を報じる能力がない。世界的にパラダイムが変わってしまっているのに、気づくことができない。P.429
次の引用は、先の引用と呼応する形で別の人物の発言。
最大の問題は、連中が、わかる、理解していると思っていることだった。高い収入のせいではない。プライドとか、傲慢だからとか、そんな問題でもない。ひょっとしたら自分は何もわかっていないのかも知れないという疑いは、不安と、ときに恐怖を生むので、基本的に不安や恐怖と縁のない生活をしている連中に耐性がない。 P.430
ここでの「連中」とは「日本メディア」のこと。
私はTVを観なくなって久しいが、それはボイコットということではなく、単に「観てると頭にくるから」「自分がバカになりそうだから」です。他に良質な情報や娯楽を得る媒体はあるし、それは日本のものに限らない。今では、日本のソースの方が少ないまでになってしまった。
政治家も国民もメディアも思考停止を選んだ。人間も組織も国家も、弱体化し、危機が深まれば深まるほど、問題の本質から目をそむけ、もっとも簡単で楽な道を選択する。正解は、もっともむずかしい方法と選択の中にあると言ったのは、確か、昔の、ギリシャかどこかの賢人だが(略)P.523
「安易にことが進む」のを全否定はしないが、「もっともむずかしい方法と選択」を避けている風に見えるのが、昨今のメディアの実状だろう。これは日本の他の分野でも言えることかもしれない。
文章が映像を越える
このひと月、色々あって、仕事終わりや休日に大量の映画を観た。昔観た映画を観直したり、好きな俳優が出ているという理由だけで、ハリウッドの超娯楽映画も観た。観る予定の「名作」もあったのだ、妙に「頭を使わない作品」ばかりを観たい状況だった。
本小説を読む直前、この正月に新しい「Star Wars」が公開されると知って、Star Wars シリーズ6作を観た。だが、6作目の途中で観るのを止めた。CGが多用された始めた4作目は以前より楽しめたが、5作目から次第に飽きてセリフが無いシーンは早送りしてストーリーだけを追った。最後の6作目を見始めた途端、妙な映画への嫌悪感を抱き、30分もしない内に観るのを止めた。Disney に制作が移った次作への期待は急降下した感じだ。
観直した「Dirty Harry」シリーズなど、このブログで書きたいことは満載だったが、ブログ投稿前に次の映画を観たため、書くのが億劫になってしまって書いていない。そんな素晴らしい作品に罪はない、単に私の映画の鑑賞方法が不味かったのだ(「Hitting the Apex」は例外で、書かずにはおれなかった)。
本小説は、563ページの大作だ。私は速読嫌いの(本来、速読に価する本などに興味はない)スローリーダー。寝る前に読む習慣があるせいか、小一時間で読むのを止めて寝る感じだ。ただ、面白い小説だと小一時間ではすまないが、それでも寝るよう心がけて途中で本を閉じていた。
「原作の小説を映像された作品が越えることはない」と長年思っているが、実際には映画のように長時間読書することは少なかった。だが今回は違った。「Star Wars」に辟易して映画を観ることに疲れた後に読んだせいか、映画以上に没頭して読んだ。
「映画のように、ぼぉ〜としては小説は読めない」(「ぼぉ〜」となる映画は観たくないのだが...)、それは当たり前のことだ。「映像も音もない文章」のため、小説を読みながら頭の中で文章を映像化するしかないので、映画を観る以上に頭はフル回転している。
セキグチやカツラギやミツイシや太田、その他の全員の登場人物を自分なりにイメージするのは楽しい。時折、実在の俳優を重ねることはあるが、ピッタリ重なる人物はなく、完全に自分なりの想像のキャラクターで動く。そんなキャラクターは私の期待を裏切らないし、良い意味で裏切ったりする。
小説を始め、活字媒体が無くなることは決してない。「紙」という媒体が廃れても、求められる本質は変わらない。「出版不況」「本を読まない」原因を単に「面白くない」と結論づけるべきだろう。そうしないと「次」はない。
先に引用した
世界的にパラダイムが変わってしまっているのに、気づくことができない。
これが全てです。もうとっくに変わってしまっています。
PS
「セキグチ、カツラギ、ミツイシ、太田」のように、村上龍小説では、カタカナ表記と漢字表記の登場人物が混在する。関口哲治と漢字表記されることはあるが、物語中はカタカナで表記される。「この区別の基準は何かな?」と素朴な疑問を抱いた。
ある意味、生き残る連中がカタカナなのかな...


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