愛と幻想のファシズム 著者:村上龍 発行:上巻1998年1月9日第16刷 下巻1998月3月16日第13刷 (単行本:1987年8月刊行) |
2009年1月に二度目を読んで以来、本書を読むのはこれで三度目。きっかけの一つは伊坂幸太郎の「魔王」の再読ではあるのだが、他にも理由はある。
苛立っていたから…、だが、その原因は色々だ。
日本のニュースは見ないようにしてるが、それでも COVID-19 に対する政府や行政の「体たらく」は漏れ聞こえて、半ば諦めながらも、フツフツと苛立ち募るばかり。
とはいえ、政治のことで私にはできることはほとんどないので、考えないようにしてる。なので、苛立ちの最大の原因は仕事。
いっそ独裁で行くよ、dictatorship ですよ!!
私がこう発してしまったのは、チームメンバーである日本人とインドネシアによる三人の打ち合わせ時(二人からは「やめてください!(笑)」と言われたけどな…)。その場でも捕捉したが、「私が考える独裁は、一般に考えられる独裁とは違う、オーケストラの指揮者や、映画監督のような感じ」と。
その後も
東京本社のやり方に納得いかん、クーデター決起!!
と人事担当や営業に叫んだ。
まぁ、こうした一連の発言に、本書を読んだ影響が多分にあるのは否定しない。が、ずいぶん前から言い続けてることもある:
民主主義ってめんどくさい!!
とか
求められる「リーダー」が「独裁者」ではダメなのか?
とかね。
こんな日常への影響もありながら、本書は非常に楽しく読んだ。大学生の頃「俺のバイブル」としていた理由も納得する。
単行本の出版から30年以上経過してるので、現在の状況と照らして読むのはフェアではない。例えば、インターネットの普及や、Apple や Google などの "Big Tech" のような存在は加味されていない。とはいえ、本書の当時の状況から見れば、リアリティは非常に高い。特に日本の政府や財界やマスメディアの「体たらく」なんて、何にも変わってないし、むしろ悪化してる気がする。
本書の感想はいくらでも書けるので、この辺でやめるが、今回気になった点を引用:
君には何にも教えてやれなかった
いろんなことを教えたかった
一人でも生きていける知恵と力を教えるか、子供を生ませるか、男が女にしてやれることは二つしかない
二つともできなかった
君に自信を与えられなかった(上巻 P.24)
こういう発言を、日常で聴く機会はなくなった、飲み屋の席ですらない。発した途端、「女性蔑視」「マチズモ(男性優位主義)」と非難されることだろう。そんな社会は「狩猟社会」から程遠い…、ある意味「非効率」な「農耕社会」なのかもしれない。
村上龍が1990年7月17日に記した「あとがき」から:
鈴原冬二やゼロがこの小説で終始苛立っていたように、私もある種の苛立ちを抱きながら、この長いストーリーを書き続けた。冬二、ゼロ、フルーツ、という三人の人物は、『コインロッカー・ベイビーズ』の、キク、ハシ、アネモネの生まれかわりである。三人は、また名前を変えて、私の小説に登場してくることだろう。『愛と幻想のファシズム』という物語は終わっても、そのテーマは私の中で完結していないからである。P.540
二度目で初めて文庫本で読んだ際に、この「あとがき」も読んだはずなのに、すっかり忘れていた。当分、村上龍本の「復習」を楽しむことになりそうだ。
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