2021年7月22日木曜日

あほらし屋の鐘が鳴る

あほらし屋の鐘が鳴る

著者:斎藤美奈子
発行:1999年2月1日(初版)

読者は踊る」の斎藤美奈子の次作が本書。タイトル通り「あほか!?」と気づかされる著者の指摘には相変わらず脱帽。その中から、比較的「シリアス」な奴から紹介。以下「カミカゼの行方」から。
この本で訴えられているのは、ごくありふれた幼稚な戦争肯定論です。新しいのは、それを思いきりよく単純化し、若者に受け入れられやすいまんが形式にした点だけ。P.298

この引用だけ読んでも、私が「どの漫画かを当てることができる」のは、2年ほど前にこの漫画を読んだ人から話を聞いたから(中国批判がそうとう過激な人だった)。

いまの日本経済の状態を見ると、今後、「一億総中流」の豊かな状態は崩壊し、貧富の差は広がり、失業者が増え、経済的に疎外された若い層が拡大することが予想されます。そうした若い層が民族主義や軍国主義をよりどころにあばれだす(こういう人たちを、一般にフーリガンといいます)のは、これまでの歴史が示すところ。外に向けての侵略戦争をおこすのは、先進国では、さすがにもう不可能です。と、彼らはそのエネルギーを、内側に向けて爆発させるしかなくなるのです。冗談ではありません。現にいま、世界の経済的に破綻した地域で起きている内乱もそれ。P.298

上記が掲載されたのは、雑誌「pink」98年12月号、20年あまり前のことだが「日本の若い層があばれだす」気配は今のところない、「経済的に疎外された若い層が拡大」しているにも関わらず。

それとも「経済的に疎外された若い層」は「拡大していない」のだろうか?

思うに、「あばれだす」より以前に「若い層は白けている」ような気がする。つまり、暴動とまではいかないが、何かを変えようと「デモ」のような行動をする「気力」もないほど「白けている」。私は暴動やデモを期待してるわけではないが、この日本で「何かが変わる雰囲気」は微塵も感じられない。

「そんな日本」や「そんな若い層」なので、上記のような漫画が無責任に出版されるのもうなずける。「責任をもって出版」しているのなら、斎藤美奈子が主張するように「英語版を出版すべき」:
世界的にも、はたしてこんな内容のまんがが通用するのかどうか。これが日本の若者たちに受けているという現実を、世界中の人々がどうとらえるか。いまのうちから国際世論にかけておくのは、危機回避の面からも、有効な策だと思われます。P.299

今日現在、この漫画の Wikipedia の英語版はあっても、漫画自体の英訳版はなさそうだ。


男性誌も女性誌も「カーン」!

本書が面白いのは、この当時の本や雑誌だけじゃなく、世の中の出来事への著者の批評。とはいえ、私が全く読まない本や雑誌の類への批評は、「読んでもいないくせ」に妙に著者に合意してしまう。多分、実際にも著者の主張は正しいと思う。

以下、男の本も女の本へも、「カーン」と「あほらし屋の鐘」を鳴らしてる例。

「徳大寺な人生」で、著名な作家のクルマ好きの様子の揶揄は痛感:
女の人にとってのこういうものといえば、そうです、輸入ブランドのお洋服や服飾品です。こころは「クリスチャン・ディオールのドレスを着てパーティに行きたい!」といっしょ。あれらは「ブランド車」という特別なカテゴリーの車なのです。P.14

名指しされた著名な作家先生方には申し訳ないが、斎藤美奈子に同意する。愛車を「擬人化(女性化?)」して表現するのも気色悪いし、愛車への偏愛具合を文書にするのも気持ち悪い。私の場合はクルマじゃなくてオートバイだが、フォルムの美しさは重視するが、結局のところ「気持ちよく走ってなんぼ」です。「マシンと同化する」なんて表現は恥ずかしくて死んでも言えない(そう言える、ライディング技術を身に付けたいとは希望してるが…)。

お次は「女の本」の例として、「ジェイジェイ」の巻:
たとえば、三人なり四人なりの年ごろの娘がいる家庭があったと想定しよう。こんな場合、だいたい長女は魅力的でプライドの高いロマンチスト。次女は聡明でしっかり者のリアリスト。っていう役割分担ができてるような気がするのだ。 
現実にそんな家庭をいっぱい知ってるわけじゃないから、お話の例で考えてみると、『若草物語』のメグとジョーがそうでしょ。谷崎潤一郎の『細雪』に出て鶴子と幸子もそんな感じだ。オースティンの『高慢と偏見』ではどうだったっけ。金井美恵子の『恋愛太平記』は…。P.48

この引用箇所を読む直前、「若草物語」(原題 "Little Women")を Pakistan から「逃げられない」少女時代に、暗記するほど読み、その後も人生の「参考書」としてる女性の話を This American Life "The Weight of Words" Act One: Go to The Mattresses で読んだ。まぁこれは、「若草物語」を「読んでないのに読んだ気になっていた」という、私のたわいのない話です。

さて、これを1970年代にはじまり、現在まで続くファッション雑誌界におきかえると、長女は「アンアン」、次女は「ノンノ」、三女はもちろん「JJ」である。オシャレでアヴャンギャルドな長女と、しっかり者で堅実派の次女の後に誕生した彼女は、最初からミもフタもないというか、自暴自棄寸前の開き直ったところがあった。 
「ふん、ねえさんたちは気どってるけど、ようするに女の子たちのモノが欲しい願望を刺激する雑誌なわけでしょ。ならば、あたしはあたしらしくやるわ」
いそうでしょ、こういう子。(略)P.49

もっと取り上げたい「カーン」な例はあるが、この辺で止める。

20年あまり前と、今では大して何も変わっていないことを痛感。それは良いことなのかどうか分からないが、「そう簡単には変化するわけないよなぁ」と妙に納得はした。

「バブルの残り香」もあったであろう当時と違うのは、クルマや派手なブランド服飾品が、当時ほど「輝いて見えない」ということか。今は、ソーシャルメディアを始めとする、バーチャルな世界がもっと「幅を利かせいる」気がする。「重厚で濃密?」だったあの頃よりは、「軽薄で薄口?」なのが現代と言えるかも…。

流行に極めて敏感でない私には、結局のところよく分からん。

0 件のコメント:

コメントを投稿