文学的商品学 著者:斎藤美奈子 発行:2008年2月10日初版 単項本:2004年2月 |
次は、第6章の「いかす! バンド文学」から:
『青春デンデケデケデケ』には、もうひとつ特徴的な仕掛けがあります。会話がすべて讃岐のことばで書かれていることです。そういえばドンチュノーの『69』でも、会話の部分はすべて完璧な佐世保のことばで書かれていました。舞台が地方都市であること。会話が一貫して地方語(方言)であること。(略)方言というのは、日本語は日本語でも、文字言語として視覚的に統一された標準語とはちがい、文字で正確に書きあらわすのがむずかしい視覚的な日本語です。べつのいいかたをすれば、非常に音楽的な日本語なのです。P.184
斎藤美奈子の音楽の好みは知らないが、その鋭い指摘は、そこそこ音楽を聴いているのではないかと思わせるほど。『青春デンデケデケデケ』からの引用箇所はここでは省いたが、「讃岐のことば」で書かれる文章は確かに「音楽的」だ。
こうしてみると、オートバイ文学は最初に想像していたのとはだいぶ異なることがわかります。ひと言でいうと、それは「健全な青少年の文学」です。
かつての「三ない運動」は「オートバイ=悪玉」説から出発したものでした。一方、オートバイ文学は絶対的な「オートバイ=善玉」思想に貫かれています。男を成長させ、女を自立させ、場合によっては男の野望を実現させる道具となり、あるいは男社会と戦う女の強力な助っ人となる。頭のいかれた不良のイメージは、ここにはカケラもありません。
そりゃまあそうか。暴走族は本を読まなし、長じて作家になったりもしませんからね。と言うのは冗談ですが、オートバイ文学の書き手は、みな真っ当なライダーなのではないでしょうか。ライダーはもともとマイノリティであり、不当に悪いイメージを背負わされています。そこへもってきて、さらに不良のイメージを上乗せすることはない。そんな大人の判断がナイスガイとナイスガールの群を出現させたように思います。P.210
と共感しつつも、ここに挙げられた作品はおろか、作家にも興味がない私なのだ。
オートバイやライダーの小説は「カッコよ過ぎ」で「カッコつけんじゃねぇよ」の感想しか抱けない。私が実際にオートバイ乗りだから「現実的」にしか考えられないからかもしれない。オートバイやライダーを描くのに適してるのは漫画だろうな。シリアスでも、ギャグ漫画でも面白い作品になり得るから。
文芸評論家斎藤美奈子
次は、広告会社のクリエイティブ・ディレクターの佐藤尚之(さとなお)の解説から:
ボクは、文芸評論家には三通りあると思っている。
作家に向かって書いている人、自分に向かって書いている人、そして読者に向かって書いている人だ。P.285
(略)
最後のタイプ、つまり、読者に向かって書いている人。
このタイプは実はいそうでいない。とても少ない。なぜなら真の意味で「読者本位」になるのは意外と難しいことだからだ。小説を「読者の時間を彩る単なる一要素」として捉え、時には愛情なく取り扱う必要がある。そのためには作品とも作家本人や文壇とも距離を置き、客観的かつ冷淡に「文学」を読者に提示しなければならない。たくさんの作家と知り合いになるなんてもっての外。ニュートラルなスタンスが保てなくなる。
このタイプの代表が斎藤美奈子である。
彼女は作家本人に興味がない。好かれようとか認められようなんて全く思っていない。また、作家より自分を上に見せようとも思っていない。なぜなら作家や小説を、そして雑誌なども含めて、それらを素材としてしか扱っていないからだ。P.287
文芸評論家としての斎藤美奈子を「どう言い表わすべきか」は悩みだった。本解説で、見事に言い表してもらった。広告業界を胡散臭く、さらに胡散臭さを何倍にもする「クリエイティブ・ディレクター」なる肩書、との偏見を持っている私だが、この解説は素晴らしい。
こんな思いがけない出会いも「読書ならでは」と近頃痛感している。それは、様々な分野の本、初めての作家の作品を、積極的に選んでいるためだろう。とはいえ、文芸評論家の本は、斎藤美奈子で事足りてる気がするの、気のせいだろうか?
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