このブログで、春華苑のことは 2009年、まだ長崎に住んでいた頃に一度だけ投稿。その後、実家に帰った際に出前で何度も食ったが、改めて美味いとなったのは、去年の帰省の際。久しぶりに店内で食べたのだが、初めて春華苑が「町中華」と気づいた(そもそも「町中華」という言葉は最近知った)。
今回も「春華苑」を食べることは決めていた。
出前、名古屋に帰る直前の昼飯。「春華苑」の逸品を撮影するのは、これが初めて:
私は「メシの写真」を撮るのは苦手(食うの優先で撮り忘れるだけ)で、しかも実家なので写真撮影なんてしない。美味さを伝える写真撮影は難しいが、この写真を眺めるだけで、味の記憶は蘇る。
手前から時計回りに「鶏の唐揚げ、スーパイコ(酢豚)、オムライス、ちゃんぽん」。妹と二人で食うには多いのだが、残りは持ち帰って「晩飯」する想定(ここの餃子も好きなのだが、自宅に五十個以上の「手作り餃子」が控えているため断念)。
通常、鶏の唐揚げは「普通過ぎて」(自分でも作れるから)食わないのだが、春華苑のは食いたくなる。今回も部位は特定できなかったが、普通のモモ肉とは違う「骨付き肉」。見た目は濃そうなのだが、そうではない。私がこんな風に鶏唐をバクバク食べるのは珍しい。
通常は「酢豚」と呼ばれる「スーパイコ」:
母が自宅で作っていたのもこれで、「スーパイコ」と呼んでいた。この呼び名は長崎だけだろう、県外では一度も聞いたことがない。味は、一般的な酢豚より「酸味と甘味が強い」かもしれない。使ってる豚の部位は、脂が多い「角煮」で使う部位のように思えた。
オムライス:
こんな機会じゃないと、オムライスなんて注文しない。今時?の「トロトロ卵」とは無縁のオムライス、単に「ケチャップご飯」と言われそうだが、この味を自宅で再現するのは難しい。先日、欧米人から「ケチャップ料理は手抜き料理」と言われたが、日本の「ケチャップ料理」はちょっと違う気がする。ちなみに、「オムライスは中華料理じゃないだろぉ!?」の疑問は「町中華」という言葉で解決するようだ(町中華の定義は曖昧だか、そんな感じのようだ)。
見た目から美味そうチャンポンに食らいついた直後、「あ、写真撮らなきゃ」となった:
食ってる途中の見た目は「あれ」だが、私には味の記憶がより鮮明になる。このチャンポンの美味さは、私が「ラーメン好きではない」理由の一つが、「美味いチャンポンを知っている」ことから想像して頂きたい。もっとも好きなラーメンは「久留米の豚骨ラーメン」だが、それよりもこのチャンポンに軍配を上げたい。
最後の町中華
実家の「町中華」は春華苑だけだろう。
思い返せば「久保田食堂」は「チャンポンと皿うどん」だけ(オニギリとかあったかも?)で、「町中華」の定義から外れる。他にも「草野食堂」もあったが、久保田食堂と同じで「チャンポン屋」だった(と思う)。
そんな久保田食堂も草野食堂も、今では存在しない。長崎県内でチャンポン屋の件数は知らないが、確実に減っているはずだ。チャンポンと皿うどんの出前の習慣が、どれほど長崎に残っているのか、想像すると悲しくなる。
実家の商店街?に新たな「中華屋」が開店していたが、その定義から「町中華」とは呼べない(食って美味かったらそう呼ぶかもしれないが...)。「町中華」にはならなくとも、美味いチャンポンと皿うどんを出前できる店になって欲しいとは切に願う。
噂でしか聞いてないが、春華苑は「長くはない」とのこと。つまり、我が故郷で「最初で最後の町中華」は、春華苑になってしまうかもしれないのだ。
「古き良き何たら」と単純には片付けられない。時代を経てこそ、地域に長く根差してこその「味」はあると思う。効率よく時短して、そんな「味」は生まれるとは到底思えない。
「町中華」や「長崎のチャンポン屋」は、地域の衰退とともに消えていくのだろう。当たり前のことだが、こんな風に実体験すると、寂しいものだ。「味の記憶」が残っている限り、懐かしむしかなく、食えない残念さだけが残る。
そういえば何だかこの1年間は、色々な「別れ」を感じた気がする。と同時に、再会も多くあった。「出会い」を大切にしたい気持ちは、「別れ」をきっかけに増したようだ。これも、物事の「二面性」なのかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿