いちげんさん 著者:デビット・ゾペティ 発行:1999年11月25日初版 単行本:1997年 |
鴨川食堂に続いて、京都が舞台の小説を読むことになったのは、単なる偶然。「好きな京都、嫌いな京都」がある私だが、今回はそんな好みより、「文章そのもの」に「何だこれは?」と序盤から躊躇した。例えば、冒頭のページから適当に選ぶと...
立ち上がると、頭がクラクラして、部屋の中は沈没寸前のタイタニック号の甲板に立っているような感じで大きく傾いてしまった。P.10辺りは植物の密かな呼吸音が聞こえてきそうなくらい静かだった。P.17彼女のせかせかした口調は平和に満ちた風景とはあきれるほど調和が取れていなかった。P.17
「純文学」の定義はよく分からないが、あまり興味がない分野。物語に没頭する以前に、「格調高い臭い」文章に、若干の苛立ちを感じるのだ。まぁ、私に「読む能力がない」のはあるのは否定しません(笑)本書もそんな「純文学」を「目指した?」ものと序盤は感じた。そして、母語が日本語ではない外国人ということで「日本語能力を見せつけたいのか?」という穿った考えも少なからずあった。
第一章の早々で「読むのは止めよう」となったが、結局は読了した理由の一つに、斎藤美奈子の書評がある、以下「本の本」から:
視覚的に「ガイジン」であることから逃れられない西洋人の青年と、視覚的な先入観に縛られていないがゆえに彼とも親しく交流できる女性。いつも「見られる存在」である二人の側から逆に見ることで、浮かび上がるのは、日本社会の閉鎖性である。ユーモアのオブラートで包みながらも、そこのところを鋭く突いた佳作である。P.45
もう一つの理由は
主人公の外国人と私自身の共通点
私は「ここ日本では」外国人はないが、「日本社会の閉鎖性」を、一般の日本人よりも意識してると思うし、そんな閉鎖性に「反発」もしている。次は、去年10月にニュージーランドのメール友達らと大阪で食事した後に貰ったメール:
笑笑 りんだはいわゆる「典型的な」日本人から結構離れてる存在だとよくわかってます!!!でもそれにみんな凄く気に入ってますよ(笑)
外国人らと「違和感なく」会話できるのは、「日本社会の閉鎖性」的な表現や行動を私がしないのもあるだろう。もちろん、日本文化に敬意を表している外国人には非常に嬉しく思うが、日本文化を強要する気は毛頭ない。外国人であろうと、「人として向き合いたい」だけ。
やれやれ。人類が月面を踏んでも、ベルリンの壁が崩壊しても、この街の人の意識はいつまで経っても揺るがないのだろうか。P.167
これも、主人公に「共感」する京都への「想い」だ。
「揺るがない」理由には、「京都の伝統を守る」面があるとは思うが、「諸刃の剣」の面もあることだろう。「伝統を魅力的」と思う人もいれば、「閉鎖的で排他的」と嫌う人もいる。単純に「好き嫌い」とも言えるが、伝統を守るには「頑なな悪人役」も必要ということだろうか?
読み進めると、冒頭に抱いた「苦手な文章」の印象は次第に薄れた。そして「これは "レトリック" なのだ」と気付いた。
【レトリック】ことばを巧みに用いて美しく効果的に表現すること。また、その技術。修辞。参照
同じような「戸惑った文章」で連想したのが ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門 で、「翻訳の問題」というより、「英語特有のレトリックを日本語に訳した」ためだと想像する。つまり本書も
外国人である著者が
母語(あるいは他の外国語や文化)に基づく
「レトリック」を日本語にした
こう考えることで私なりに納得する。
「へぇ、外国人が日本語で小説、しかも文学賞受賞とはねぇ」と当時は騒がれたようだが、20年以上経った現在は、どう受け止められるだろうか。京都在住のアメリカ人の同僚に、本書の話をして、次のような会話があった:
りんだ:今でも、外国人扱いされて嫌な思いすることある?
同 僚:「こんにちは」と言っただけなのに「日本語上手ねぇ」と、騒がれます。
りんだ:いまだにそうなんだぁ...
同 僚:いつもじゃないですが、言われる時はあります。単に挨拶しただけなのに(笑)
20年ぐらいじゃ、人も時代も文化も、変わらないのだろう。最低でも「丸々ひと世代」は必要だろう。
PS
そういや私も、主人公と同様に「演歌が嫌い」だ(笑)
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