2024年7月3日水曜日

不実な美女か貞淑な醜女か

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か

著者:米原万里(よねはらまり)
発行:2017年4月15日第28刷(初版:1998年1月1日)
著者のことはずっと昔、まだテレビを見ていた頃に知った。ロシア語通訳者、「他の解説者より意見が明確」との印象を持った。その後の訃報も「えぇ、まじかぁ」と受け止めた記憶がある。それ以上の記憶はなく、数週間前に「再会」したのは斎藤美奈子の『本の本』で『打ちのめされるようなすごい本』の紹介だった:
忘れもしない、私がロシア語同時通訳者としてではない、エッセイストとしてでもない、読書人としての米原万里に刮目(かつもく)したのは次の文章を読んだ時だった。
<食べるのと歩くのと読むのは、かなり早い。(中略)ここ20年ほどは1日平均7冊を維持してきた>
刮目とは「目をこすってよく見ること」の意味だそうだが、文字通り、私は目をこすったのだった。1日7冊ぅぅ!? 嘘だ嘘だ、そんなの絶対に嘘だっ。P.319

刮目したのは私も同じ。しかし、本書を読んで「1日平均7冊」は「読んでるな」と確信した。

日本語が「雑」な人たちへ

本書は斎藤美奈子の紹介した本ではなく、米原万里の本を物色中に見つけたが、その理由は読む直前には忘れていた。なのでタイトルから「あぁ、ジェンダー論、女性論的な奴だろうな」と思ったが、あっさり覆された。

私は本書を読んでる途中、完全に著者のファンになり、「外国語を学んでいて良かったな」と痛感したと同時に、「よし、英文ライティング、真剣に取り組もう!」と決意を新たにして、ライティング関係の本を読み始めた。

こんなふうに外国語を学んでいる人には得ることが多い本書だが、それ以上に、満載のユーモアで大いに楽しませてもらった。事実な話だけに、余計に面白い。例えば国際会議の「神経勝負」な場面で、通訳での「失敗」は抱腹絶倒もの(笑)

診察の結果Oさんという人にシコリが見つかり、私はすぐさまTBSの報道局に電話をして、
「Oさんの陰嚢(いんのう)の漿膜腔(しょうまくこう)を触診した結果、腫瘍らしいシコリが確認されましたので、さらに綿密な検査を要します」
と伝えた。(略)なのに相手には通じていない。ついに私も意を決して、大使館中に響き渡るような声で、
「えーとですね、Oさんのキンタマのしわをですねえ…」
と怒鳴っていたのであった。P.54

私は下ネタが好みではないが、言葉の解釈上、下ネタと遭遇するのは避けられない。「センスの良い下ネタ」があるとすれば、私は嫌いじゃない。

本書は語学の学習者だけじゃなくても楽しめるし、「日本語について考えさせられる」ことも多い。例えば「差別用語」など「禁句」の扱い方に完全に同意:
しかし、現場では自戒の念も込めていうが、差別の現状と差別意識を克服しないまま、単に臭いものに蓋をする式の姑息な言い換えにうつつを抜かしているとしか思えない場合が多い。P.38

例えば、「かたわ」→「身体障害者」→「身体の不自由な方」と進んできた言い換え、現在二番目までが禁句で、このままいくと、三番目もまもなく禁句になるはずだ。
コトバを禁じても、そのコトバによって表現された概念を禁ずることは、不可能であるということに尽きる。P.40

日本語を「雑」に使ってる人は少なくない。つい先日も、私の開発したものに対して法律事務所の作った文章に「寄せ集め」という記述あった。
あなたは、自分の作ったものを「寄せ集め」と言われて何も思いませんか?「組合せ」という言葉は知りませんか?
との思いが一瞬にして頭をよぎった。母語を「雑」にしてる人は、外国語が堪能になれないと思っている。そのことにも本書は言及している、自分の正しさを確信した瞬間だ。

タイトルに込められたユーモア

本書のタイトルの説明はしないが、適切なタイトルだと思う:
比喩とはいえ、容貌と貞淑度を問題にされるのが女ばかりであるのは癪である。これを男に置き換えられないものかと、「貞淑」に該当する、男を修飾する形容詞を探したところ、見当たらない。P.148
著者も「癪である」のが嬉しくなった。

著者同様に、癪になる女性は多いと思うが、これも「臭い物に蓋」ではなく、長い歴史で、しかも世界的に容認されてきた「文化」だから、そう簡単には変わらない。ガーガー騒ぐように「蓋を閉める」のでなく、著者のように「男版の言葉を探す」など、ユーモアの一つとして扱うのが「カッコいい」と私は思う。

通訳と翻訳、どちらが「大変な仕事」「偉い仕事」なんてどうでも良いが、通訳、特に同時通訳の「緊張感」は「真剣勝負」としか言えない。そんな同時通訳者の米原万里の次の言葉は胸に響く:
地理的にも離れ、異なる歴史を歩んできた国の人々が、異なる文化と発想法を背景にしたそれぞれの言語で表現しながら、それでも通じ合っているそのこと自体が奇跡に思えてならないのだ。そして異なるからこそ共通点を見出した時の喜びは大きい。他の民族に対して自国の言語を押しつけたり、あるいは逆に強国に迎合して自国語をないがしろにしている人々には、この感動は永遠に訪れまい。通じる瞬間のとてつもない歓喜を一度味わってしまうと病みつきになる。P.308

外国語は英語しか得意ではない私だが、英語を通じて、日本語や日本文化に疎い外国人と接するのが刺激的なのは、まさに「通じる瞬間の歓喜」に他ならない。日本語翻訳されていない「情報」を得て「活用」できるのは言うまでもない。

ロボットに置き換わるか?

本書が執筆された頃、LLM(Large Language Model)の登場は想像できなかったろう。当時、勤務していた会社の研究所が開発した「英語翻訳ソフト」を使ったが「明けましておめでとうございます」を翻訳させた結果:

Thank you for opening the door.

冗談にもならない翻訳だが、当時の「機械翻訳」のアルゴリズムは想像できる。今の LLM と同様な発想があったとしても、GPU に相当するハードウェアは無く、現在のような自動翻訳は不可能だった。

そんな LLM の登場は、通訳や翻訳の仕事を置き換えるか? 私はそうは思わない。旅行先などで「ちょっとした翻訳」には使えるツールかもしれないが、本格的な通訳・翻訳には使えない。本書を読んでさらに確信したが、当の米原万里はどう考えるだろうか、きっとユーモアたっぷりに「鋭い回答」をしてくれることだろう。

それが叶わない願いなのが、ただただ心痛い...。

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