2024年9月1日日曜日

文芸誤報

前作:本の本

文芸誤報

著者:斎藤美奈子
発行:2008年11月30日初版

斎藤美奈子の本としては珍しく面白くない、と思いながら読んだ。原因は明らかで、取り上げる本が、芥川賞や直木賞などの、いわゆる「文芸賞」の候補作品。紹介内容から作品を想像しても、大して面白そうではない。「そもそも誰がどういう基準で候補作品を挙げてるのか?」の疑問はあるが、それって「アカデミー賞」も同様で「何故にこんな映画が受賞候補なのか?」と毎回のように思う。

とはいえ、受賞候補作品と無関係になった第四章あたりから面白くなったので、やっぱり「何とか賞候補」なんて私の好みとは無関係のようだ。この回も、多くはないが、面白そうな本を発見できた。

さて、そんな「つまんなさそうな本」の筆頭『プロセス・アイ』、その書評:
率直にいえば、気宇壮大なアイディア・ノートとでもいうべき代物。作者の理論を補強するための論争小説。しゃべってばかりいないでその先に行って、と思うことしきり。能科学者の脳の中では、ちっちゃな分身が大勢活躍しているのだろう。P.35

茂木健一郎のことはすっかり忘れていたが、私の彼への印象はまさに「しゃべってばかりいないでその先に行って」なのだ。機械学習なりのシステム設計&開発する私は、「ヒトはどのように考えているのか」を常に意識しているが、この人の話は何の役にも立たないのだ。

次は『「本を読む子」は必ず伸びる!』への批評:
子どものころの読書って、半分以上は逃避だったと思うんですよ。勉強がイヤだから本に逃げる。「こんなことやってちゃいかんのだよなぁ」と自覚しつつもダラダラと読み続け、「ああ、また無為な時間をすごしてしまった」と苦い後悔にさいなまれる。それなのに<「勉強しなさい」と一回言うかわりに、「本を読みなさい」と言ってください>と親に指導された日にゃ、子どもはどこに逃げればいいんだ? 
まー、この種のハウトゥー本を読むこと自体、読書という行為とは著しく矛盾するような気がするが、これだけはいっておこう。読書は成績向上に寄与しない。本は受験の敵である。本を読む子だったあなたなら、きっとわかってくれるだろう。P.325

私の高校は進学校で頭の良い連中が周囲にたくさんいた。二年生から所謂「理系クラス」で女性は数名の「野郎クラス」。読書の話題はしたことがない、国語の授業は舐めてかかっていた(それでも、そこそこの点数を取れる連中ばかり、私はダメダメ)。「読書は趣味。」みたいな奴はいたとは思えない(こっそり読んでいたのかも...)。

「理系クラスだから賢い」とはしないが、一般的にはそう見られる。成績が良い連中は、英語、数学、物理、化学を「ちゃんと勉強」してた、しかも運動部で活躍しながら!!連中とは普段は馬鹿騒ぎしてたが、やっぱり読書の話題はなかった。一見して本を読んでそうな連中は、偏見かもしれないが、休み時間には「将棋」なんかをやってた。

読書が学生にとって「直接的に成績向上」にはならない意見には賛同。あるとすれば「大人になってから役にたつ、継続して読んでいれば」。今では私は「常に本を読む時間を確保したい」ヒトになったが、こうなったのはつい最近のこと。「現実逃避」な面も否定できないが、むしろ「ポジティブ」な面が強く、知識の取得にとどまらず、感性や感受性が養われてる実感はある。

とはいえ、子どもに本を読んで欲しい願いはある。あるが、強制するものではない。そもそも私の場合、子どもの頃「本を読めるって憧れるなぁ」の想いはあった。これが私が「本を読めなかった」証拠です。

ところで、「本を読みなさい」と言う親自身が本を読んでいなければ本末転倒だよな?『チルドレン』の読後に書いたが「大人が格好良ければ子どもはグレない」とどこか似てる。

PS

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