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The Theory That Would Not Die: How Bayes' Rule Cracked the Enigma Code, Hunted Down Russian Submarines, and Emerged Triumphant from Two Centuries of Controversy 著者:Sharon Bertsch McGrayne 発行:Paperback 2012年9月25日(Hardcover 2011年5月17日) |
日本語訳版『異端の統計学 ベイズ』を読んだのが2014年5月、その後すぐに原書を購入(中古本の paperback 版)。"Thinking, Fast and Slow" 同様に日本語版が楽し過ぎたために、原書を読んだつもりになっていた。
なかなか仕事でベイズを使えてこなかったが、先日あたりから、とある本を読み出して改めてベイズを見直している。さらに、具体的な活用を目指して、別の本も手に取った。そんな中、本書のことを思い出した。
まだ読了していないが(Chapter 3 "many doubts, few defenders" の途中)、Bruce Lee の伝記並みに楽しんでいる。読み終わる頃には、ブログに記したいことだらけになりそうなので、興味深い記述は断片的にでも記しておこうと思った。
なお、ここでの日本語訳は私のもの(部分訳の場合あり)。日本語訳版は参考にしていない。
For the third time Bayes’ rule was left for dead. The first time, Bayes himself had shelved it. The second time, Price revived it briefly before it again died of neglect. This time theoreticians buried it. P.38
三たび、ベイズルールは死んだものと見捨てられた。最初は Bayes 自身の手によって棚上げされた。二度目は Price が生き返らせたものの直ぐに無視された。そして三度目は理論家たちの手によって葬り去られた。
これは1891年のこと。Bayes とは Thomas Bayes、Price とは Richard Price、そして三度目に葬り去った「理論家たち」とは、frequentism(頻度主義)な人たち(主観的なことを過度に嫌う人たち?)。
Bayes, Price の他に、もう一人重要な人物がいる:
If advancing the world’s knowledge is important, Bayes’ rule should be called Laplace’s rule or, in modern parlance, BPL for Bayes-Price-Laplace. Sadly, a half century of usage forces us to give Bayes’ name to what was really Laplace’s achievement. P.32
世の知識の発展が重要なら「ベイズルール」は「ラプラスルール」と呼ぶべきだろう。あるいは現代の用語では「BPL」つまり「ベイズ・プライス・ラプラス」。半世紀にわたる使用のおかげで、ラプラスの偉業に対してベイスの名前を与えてしまった。
「ラプラス」とは Pierre-Simon Laplace で、フランスの数学者、物理学者、天文学者。この引用は Chapter 2 "the man who did everything" からで Laplace の生誕から偉業を一気に知れる。併せて当時のフランスも知れることが楽しい。本書を読むまで「ラプラス」と聞くと、天文学と数学の領域で目にした記憶があった。
以下、Chapter2 の冒頭:
Just across the English Channel from Tunbridge Wells, about the time that Thomas Bayes was imagining his perfectly smooth table, the mayor of a tiny village in Normandy was celebrating the birth of a son, Pierre Simon Laplace, the future Einstein of his age.
Pierre Simon Laplaceは、彼の時代の「未来のアインシュタイン」。
そんな Laplace がベイズルールの確立において、極めて重要な役割を担っていた。そんな Laplace は、死後まもな根拠のない批判に晒される。その箇所は割愛するが、今から約200年前のことだが、「根拠のない批判・誹謗中傷」はいつの時代もある。ネット時代、ディープフェイクな時代の現代の方が厄介かもしれない...。
「確かな情報を集めて、可能であれば確率を導き、より正しい判断を...」と言うのは簡単なのだが、"Thinking, Fast and Slow" が言うところの "System 1"(いわゆる「直感」)で判断し行動しがち。おまけに人というのは「難しい問題は、簡単な解釈で済ませる」傾向があるのだ。多くの人は確率の計算なんてやらない。
Laplace はベイズだけでなく、頻度主義の確率理論も打ち立てた:
Amid the dissension, Laplace’s delicate balance between subjective beliefs and objective frequencies collapsed. He had developed two theories of probability and shown that when large numbers are involved they lead to more or less the same results.
意見が合わない中、Laplace の主観的確信と客観的な頻度の、慎重なバランスは崩れた。彼は二つの確率理論を打ち立て、多くの数のデータがある時、多かれ少なかれ二つの理論からは同じ結果が導かれるとした。
「多くの数のデータ」が Laplace の時代と今とでは違いすぎるのもあるが、「頻度主義の確率で、必要なデータ量」は定義されている(と思う、何かで読んだが忘れた)。それでも私はベイズの方を使うだろう(参照:ベイズの基礎:Why Bayes? )。
次は冒頭の引用に続く一節:
The funeral was a trifle premature. Despite Chrystal’s condemnation, Bayes’ rule was still taught in textbooks and classrooms and used by astronomers because the anti-Bayesian frequentists had not yet produced a systematic, practical substitute. In scattered niches far from the eyes of disapproving theoreticians, Bayes bubbled along, helping real-life practitioners assess evidence, combine every possible form of information, and cope with the gaps and uncertainties in their knowledge.それでもベイズルールは学校で教えられ、天文学者によって使われた。というのも、反ベイジアンの「頻度主義者」から体系づけられて実務的な代替となる手法が提示されていなかったからだ。批判がましい理論家連中の目から逃れて、点在した隙間からベイズは沸き起こった。現実社会の専門職従事者たちは証拠を評価し、あらゆる可能性のある情報を結合し、自らの知識における乖離と不確実性に対処するために、ベイスを利用していた。
Laplace が根拠のない誹謗中傷に晒され、それに伴って Laplace が打ち立てた理論も批判の対象になった。ベイズ理論(当時はそう呼ばれはいなかった)はそんな中でも「沸き起こった」ことが喜ばしい。「三度も死んだ」のにね(笑)とはいえ、これで「ベイズ普及」とならない歴史を知っているので、今後の展開が楽しみ。
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