前作:陽気なギャングの日常と襲撃、自作:ゴールデンスランバー
フィッシュストーリー 著者:伊坂幸太郎 発行:2010年10月10日第7刷、初版2009年12月1日(単行本:2007年1月) |
まぁ、作品の順位付けに大した意味はないので、これ以上は突っ込まない。
四篇の中短篇はどれも面白く、「どのお話もほら話、つまりフィッシュストーリーだけどな」と感じながらも、幸福な気分に浸れる作品ばかり。特に「フィッシュストーリー」と「ポテチ」は秀逸。更にどちらの映像版(映画『フィッシュストーリー』、『ポテチ』)も素晴らしく、良い意味で「原作に忠実な映像化」に成功している。今回の再読中、映像版の登場人物の多くが原作と重なった。特に「ポテチ」の今村、大西、そして今村の母。
なんといっても、映像版で思い出すのが「フィッシュストーリー」のレコーディングシーン:
「岡崎さん」と五郎がマイクに向かって言い出したので、俺はぎょっとした。演奏中で、録音中であるにもかかわらず、五郎が喋ったからだ。本番であるのを忘れたのか、と思った。(略)「岡崎さん、これは誰かに届くのかなあ」五郎は歌うでも、嘆くでもなく、のんびりと言った。「なぁ、誰か、聴いてるのかよ。今、このレコードを聴いてる奴、教えてくれよ」P.199
原作を超えて、映像版で「冴わたる」のが渋川清彦が演じるドラマー「鉄矢」:
焼きそばは焼かなくっちゃだめだよ。でもさうどんは焼かないよね。
大抵の映像化で、原作の面白さを超えることはないが(The Queen's Gambit は超えている)、もしかして『フィッシュストーリー』は(ある意味)「超えている」かもしれない。とはいえ、小説でしか味わえない描写があるように、映像化でしか描写できない味わいがある。なので「超える・超えない」の問題というより「表現の違い」なのだろう。
作品同士のリンク
文庫版の発売順に伊坂作品を「再読」すると、初めて読んだときには気づかなった「作品同士のリンク」に気づく。本作は特に多かったように思う。以下、気づいた点を挙げるが、「もしかして、これはあの話か?」となった箇所は挙げてないので、実際はもっと多いかもしれない。
『オーデュボンの祈り』が、もっとも多く、別の作品に登場する気がする:
私の記憶によれば確か、その後しばらくして、伊藤は会社を辞め、コンビニエンスストア強盗などをやらかして警察に逮捕された。しかも、逮捕後に逃走までして、私は友人たちと、あの伊藤がどうしてそんなことを、と首をかしげたものだった。P.42
『ラッシュライフ』
反射的に、以前、遭遇した老夫婦強盗のことを思い出した。拳銃を持って、黒澤の財布を奪おうとした老夫婦のことだ。「今まで生真面目に生きてきたから、羽目を外そうと思った」と言う姿はどこか現実味がなかった。あれも言ってしまえば、やったね、と喝采を叫びたかったのかもしれない。P.68
『重力ピエロ』
「DNAの検査というのが今はできる」黒澤の表情は大きくは変わらなかった。「以前、仕事の関係で知り合った相手が、そういう会社で働いているからな、そいつに頼んだ。その彼が健康調査を名目に、当時、そこで生まれた何人かのもとを訪れて、粘膜を採取してくれたんだ」(略)黒澤は、これは偶然なんだが、その調査をしてくれた彼自身も、血の繋がりで悩みを抱えているのだ、と言った。P.318
『アヒルと鴨のコインロッカー』「本屋に行くの?」「うん、ちょっと広辞苑でも盗もうを思って」という会話は、伊坂作品ファン同士では成り立つのだろうな(笑):
「本屋?」本屋に行って広辞苑を盗むわけでもあるまいし、と大西は思う。P.276
「ポテチ」の今村、大西、そして今村の母。また他の作品に登場してほしいな。映画『フィッシュストーリー』、『ポテチ』、また観たくなった。
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