2026年4月9日木曜日

夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く

夕暮れに夜明けの歌を
文学を探しにロシアに行く


著者:奈倉有由
発行:2021年10月14日初版
文学キョーダイ!!』で知った著者の本、かなり面白くて一気に読んだ。

ソ連崩壊の頃は何となく記憶にあるが、現在のウクライナ情勢までを通じて、ロシアのことを知っているとは到底言えない。文学?(本が読めること?)に憧れていた大学生の頃に、ドフトエフスキーを読んだが、さっぱり意味不明だった。今でも、「ロシア文学、重厚なんだろうなぁー」ぐらいの浅はかな印象しかない。

ロシア社会や文化のことはサッパリ。ハリウッド映画などで「悪役はロシア」という構図が目立った時期があったが、その印象は少なからず「植え付けられた」かもしれない。数年前に、ロシアとウクライナの人と話す機会があって、80年か90年台頃のロシアのドラマを紹介してもらったが、かなり明るくコメディーものでビックリした。「え、ロシア人もコメディー好きなんだ」と、全くもって無知な自分が恥ずかしくなった。

本書を読むと、ロシアやその周辺諸国のことが少なからず分かり、自分が何も知らなかったことを痛感する。そして「言語」や「文学」の大切さを改めて気付かされた。

しかし最終学年のころには、ウクライナとロシアの不穏な溝を感じる出来事が起こるようになっていた。そこで問題になるのはやはり言語だった。あるとき、文学史の教授が講義でウクライナ出身の作家を何人か挙げ、「ゴーゴリはウクライナ語もできたのに、結局はロシア語で書くことに落ち着くわけで、やはりウクライナ語よりロシア語のほうが優れているというか、文学的で、文学作品に適しているんでしょうね。ほかのウクライナ出身の作家も多くがロシア語で書くようになっていますし」という、ありえない発言をした。P.223

文学史の教授としては全くもって「ありえない発言」。ということは、一般の人がこのような発言や思考を持ってしまうのは容易に想像できる。

普段はおとなしいマルーシャが即座に「じゃあシェフチェンコのウクライナ語作品はどう説明するんですか!」と大声で反論したのがせめてもの救いだった。P.223

このような反論があるのことを想像できないことに問題がある。

ここまで酷い話ではないが、日常的にもあるのが例えば:
論理的な文章を書く場合は、日本語より英語の方が優れてる。

実際、このような発言を何度か耳にしたが、私が納得する「優れてる理由」は聞いたことがない。日本語でも論理的な文章は書ける。それ以前に「何をもって論理的か」の定義すらない。

些細なことかもしれないが「優位な立場」の意識が、多くの紛争の火種の一つなのかもしれない。

灰色にもさまざまな色

どの章も印象的だったが、ここでは第29章「灰色にもさまざまな色がある」を取り上げる。このタイトルからして印象的。ただ、この章のことを書こうとして筆が進まなくなった。この章の背景にあるのが、ロシアと近隣諸国の対立。そこには当然のように「人と人の対立や分断」がある。その原因が何なのか分からなくなったのだ。

対立にあるのが「白黒」つけたがる人たちなのか...。それとも、「さまざまな灰色」の人たちがいるから対立するのか...。

単純化して構造を考えてみる:

・白黒をつけたがる人たち
 単純化する力が支配(例:善/悪、正/誤、敵/味方)

・灰色の人たち
 単純化できないものが支配(例:歴史、宗教、文化、感情)

一つ考えられるのは:

 灰色があるから対立するのではなく、
 灰色を白黒で処理しようとするから対立が生まれるではないか。


言葉は偉大だ
ある大教室の壁には、レフ・トルストイの言葉が掲げられていた ー 「言葉は偉大だ。なぜなら言葉は人と人をつなぐこともできれば、人と人を分断することもできるからだ。言葉は愛のためにも使え、敵意と憎しみのためにも使えるからだ。人と人を分断するような言葉には注意しなさい」。その教えは私たちにとって指標であり規範であった。P.227
 
ロシアやその周辺諸国の作家の本を読みたくなった。

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