2026年8月11日火曜日

文庫解説ワンダーランド


文庫解説ワンダーランド

著者:斎藤美奈子
発行:2017年1月21日初版

私は、単行本より文庫本を読む方である。ただ、文庫本に付く「解説」は「不要じゃないか?」とは思っていた。特に「あらすじ」は書くことがルールなのか、「字数かせぎ」なのかは不明だが、完全に不要だと思ってる。一応は読んでるが、面白かったことは一度もない。

英語のペーパーバックも読むが、日本の文庫本のような「解説」はほとんど見かけない。その代わり、表紙や冒頭には「傑作!」「最高!」みたいな賛辞がグジャグジャ並んでいる。あれはあれで「そんなに褒めなくても……」と思うのだが。

さて、そんな「文庫解説」も斎藤美奈子にかかれば「え!そんな読み方があるのか!」と驚かされるから、さすがです。特に『走るメロスと、メロスを見ない解説陣』は秀逸。

自分はともかく、人の解説にまで「交遊録を書け」と進言する井伏も井伏。それを真に受ける伊馬も伊馬。(略)駄弁を長々とふるってみせる。つまりここでも表題作『走れメロス』への言及は一切なし
もう一度いうけど、ふざけてる? P.34
二人のバカな若者を、民衆の支持を集めるパフォーマンスに利用するくらい、政治家だったらやるんじゃないの?王がこの後、メロスとセリヌンティウスを登用したら?単純な二人は友となった王に味方し、民衆を支配する側に回ったはずだ。
ー というような深読みを、少なくとも文庫解説は試みない。P.36

おおー、『走れメロス』ってそうだったのかー(そうも読めるのかー!)。確かに一見して「毒のない話」なのだが、発表された頃の1940年の日本を考えれば、『走れメロス』はかなりの「皮肉」が込められた「パロディ」とも読める!

太宰治の『走れメロス』は、多分中学生の頃、学校の教科書で読んだだけだが、大学生になって太宰の他の作品を読むと、「太宰は何故『走れメロス』なんて話を書いたのだろう」という疑問を抱いた。その長年の疑問も解消した感じだ、さすが斎藤美奈子!!

さらに
万感の思いを込めて『坊ちゃん』の解説が書かれ、伝記的事実を総動員して『伊豆の踊り子』の書かれていたのに比べると、太宰の短編は正当に遇されてるとはいいがたい。そこには解説者の太宰を見る目が反映しているように思われる。すなわち「才能はあるが危なっかしい弟」を見る眼差し。「上から目線」というやつだ。P.38

さて「誰が太宰を上から見てるのか」はお察しの通りだが、当時の文壇の世界が垣間見える気がする。


「そっち方面」なのか?

ただ一つ、本書で「そうかな?」となった点は:

八木の解説がいう「ホモエロティシズム」は、ホモソーシャルとホモセクシャルの中間に位置するエロティックな関係を指す(同性愛にも多様な段階があることは異性愛と変わりがない)。この概念を手に『グレート・ギャツビー』『ロング・グッドバイ』を読むと、ニック・キャラウェイがギャツビーに抱くもの、フィリップ・マーローがテリー・レノックスに抱くのも、嫌悪と憧憬の間を揺れ動く、屈折した恋愛感情=ホモエロティシズムにほかならない。P.78

んー、そうなのかなぁ。時代を反映してそういう解釈もできるが、そうなると、何でもかんでも「そっち方面」に解釈できることになる。想像力を膨らませるのは読者の自由だから、他人が口出しすべきものではないが、「自由すぎる解釈」もどうかとは思う。

"The Big Sleep" を原書で読んで楽しみ、その後もオーディオファイルで楽しんでる Raymond Chandler 作品だが、私には「そっち方面」にはどうしても解釈できないし、私にとって楽しむのは「そこじゃない」のである。


自分で見つけ出す

「文学に教訓はいらない」P.95 から。
教育的配慮うの件に話を戻す。はたして児童文学の望ましい解説とはどんなものなのか。
(略)
19世紀イギリスの社会状況と、これを読む今日的意義を浮かび上がらせる手腕。原田の解説は、子ども向けの解説でもここまで書けるという見本だろう。
そう、児童文学の解説に半端な「教訓」なんかいらないのだ。必要ならば、彼らは自分のための教訓を自分で見つけ出すだろう。
解説がしてやれるのは、そのための情報を提供することだけである。子どもは解説なんか読まないって、というのは大人の思い込みである。子どものときに読んだ本は一生の財産になる。児童文学の読者を一人前の大人として扱う。それを教育っていうんじゃない? P.96

思い出したのが漫画『あしたのジョー』、私はリアルタイムの世代ではないが、小学生の頃にコミックスを全巻集めて読んだ、繰り返し読んだ。誰からも薦めたれた記憶はない。その記憶は今でもあるし、先日初めてアニメ版(「あしたのジョー2」の前のシリーズ)を観たが、かなり面白い。今ではタブーとされる表現も少なくないが、むしろ「あしたのジョーの世界観」には必須と考える。

そう「自分で見つけ出す」ことが大切なのだ。それは「自分で考える」「自分で決めること」の行為が含まれ、見つけ出した対象は少なからず「憧れの対象」であり、「将来の自分」に直結する可能性が高いのだ。

『あしたのジョー』への「憧れ」は、私自身が数十年後にボクシングを始めたことかもしれない。いや、それ以上に「何かに立ち向かう姿勢」を教えられたと思っている。

さて、「文庫本には解説は不要」と思っていたが、どうやら不要なのは、あらすじや「正しい読み方」を教えてくれる解説なのかもしれない。自分では思いつかなかった読み方を示されて、「そう読むのか!」となる。もちろん「いや、私はそうは読まない」と思うこともある。それが「文庫解説」なのかもしれない。

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